散策:俳人「寸木連句碑」(2020.3.15)

妙照寺の住職己百(きはく)はたびたび便りを送り、終には自ら京都まで赴いて、松尾芭蕉を岐阜へ誘った。
その後貞享五年(1688年)6月美濃へ、第二回の来遊をした。
17日に三ツ又村庄屋の神山長四郎 吉正(こうやまちょうしろう よしまさ)俳名:寸木が、芭蕉・荷兮(がけい)・越人・落梧(らくご)・秋芳(しゅうほう 己百)の俳人と発句から6句までの連句を詠む。

道路の左側に案内板・・左に曲がり左側にすぐある
三ツ又を詠んだ俳句の説明
案内板の道路の反対側・・右が入口
元神山家の氏寺・・地蔵寺跡

寸木は、芭蕉が江戸深川の芭蕉庵の俳風を美濃へ持ち込んできたことを讃えて発句を詠んだ。
芭蕉は三ツ又も武蔵野もよく似ていると答えた。もちろん似ているのは地名や気候だけではなく、蕉風と通ずる美濃の俳風である。「こちらも立派な処です」と答えたのである。(案内板参照)

左が連句碑で、右が古和歌碑

どこまでも武蔵野の月影涼し(寸木) ・・「広い武蔵野の隅々までも月の光が照り渡って、江戸の夏の月はさぞ涼しげでしょう」
水相似(みあいに)たり三(みつ)またの夏(芭蕉)・・「深川の草庵に近いあたりの三股とこの美濃の三股と、地形や水の趣は互いによく似てい ます。」
(三木秀生著:岐阜市の文学碑散歩参照)

松尾芭蕉と神山寸木の連句碑
古和歌碑は、明和二年(1765年)神山義正が建立

この地区の道路が広くなり、町が変わろうとしています。高速道路の岐阜ICとの接続や、マーサー21への接続が簡単になる。

西・・右下マーサ方面、右上岐阜大学病院からの南下道路と接続

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