旅:日本の街道5 日光道中2-1(2020.6.3)

日光街道(日光道中)は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸~下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として、東海道に次いで整備された。

日本橋を起点に「千住宿」~「古河宿」・・講談社参照

日光街道は「千住宿」~「鉢石宿」迄の21宿・約36里(140km)の距離があるが、今回本に記載されているのは、「千住宿」「草加宿」「幸手宿」「古河宿」「小山宿」「宇都宮宿」「今市宿」「鉢石宿」の8宿場のみです。・・理由は不明。

「古河宿」~「日光」・・講談社参照

徳川家の御典医:岡本玄冶は3代将軍家光が痘瘡を病んだ際に全快させて名を高め、幕府から拝領した土地に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれた。与三郎とお富で有名な「与話情 浮名横櫛(よわなさけ うきなのよこぐし)」の舞台として知られる。
「小伝馬町」は江戸時代には旅人宿の多い賑わった町で、繊維問屋・金物問屋も多く連なっていた。名主:宮辺又四郎が、伝馬役を司った事に由来する。

起点「日本橋」~「小伝馬町」・・講談社参照

「寛永寺」の開基(創立者)は徳川家光で、開山(初代住職)は天海・本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が眠る。
「浅草」の地名の由来は、草深い武蔵野で「草が浅く茂っていたから」という地形描写説のほか、「海を越す」を意味する「アツアクサ」と言うアイヌ語説や「聖者のいる場所」を意味する「アーシャ・クシャ」と言うチベット語説などがある。

「小伝馬町」~「浅草」・・講談社参照

推古36年(628年)檜前(ひのくまの)浜成・竹成兄弟が、宮戸川(現:隅田川)で漁をしていて仏像が網にかかった。土師中知(はじのなかとも・・名前は諸説あり)という土地の長に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であるとわかった。土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが「浅草寺」(せんそうじ)の、始まりと言う。
「千住宿」は日光街道(正式:日光道中)奥州街道(正式:奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つで水戸街道はここから分岐していた。
文応元年(1260年)草創された勝專寺の寺伝によれば、嘉暦2年(1327年)に新井図書政次が荒川(現:隅田川)で網で千手観音像を拾い、この地を千手と呼んだことに由来するという。(諸説あり)

「浅草」~「千住宿」・・講談社参照
ユーチューブ・・読売新聞社提供

「草加宿」は日光街道・奥州街道の2番目の宿場町で、新道の完成に2代将軍:徳川秀忠は喜び、「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」と下知した。・・言い伝えがある
「草加松原」は松並木が綾瀬川沿いに1.5kmに渡って続き、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の第1日目にも記されている。
「幸手宿」は日光街道・奥州街道の6番目の宿場町で、又日光御成道の6番目の宿場町でもある。日光社参による休憩所・宿泊地となる御殿(聖福寺境内)が設置されたが、火事による焼失後再建されなかった。・・聖福寺の本堂を使用

「千住宿」~「幸手宿」・・講談社参照
2018年6月現在「草加松原」・・草加市役所HP参照

「古河宿」は日光街道の9番目の宿場町で、将軍家による日光社参では古河城は岩槻城・宇都宮城と並び、将軍の宿城とされており、日光街道における主要な宿場の一つであった。

「幸手宿」「古河宿」・・講談社参照