旅:日本の街道7 北国街道 加賀路2-1(2020.6.12)
琵琶湖の東岸に南北に広がる湖東平野は、古来京都と東国・北陸を結ぶ交通の要衝であった。1.000m級の山々が連なる伊吹山地の裾野を、琵琶湖沿いに進み、そのまま北上すれば日本海に到達する。同時にこの経路こそが、京から北陸への最短路であった。・・講談社参照
「北国街道」は金沢からさらに越中(富山県)・越後(新潟県)まで続いており、彦根から新潟まで全長520kmある。このうち金沢までの道は特に「加賀路」と呼ばれ、190km程度である。・・講談社参照。
現在は彦根から木之本までは国道8号、そこから福井県の武生(現在:越前市)までは国道365号、武生から金沢までは国道8号がほぼこれに該当する。(一部修正)・・講談社参照。
「彦根」と言う地名は、活津彦命(父:天照大御神)が彦根山に祀られたことに由来する。近江国の交通の結節点で、全国に信者を持つ「多賀大社」の参詣道が隆盛した。
「鳥居本宿」は中山道の63番目の宿場で、鳥居の元にある宿駅という表記そのままに、かつて宿内にあった「多賀大社」の鳥居に由来している。(諸説あり)
「米原」は北国街道の「米原宿」に当たり、3か所の宿場町が置かれた。「番場宿」は中山道から湖上の水運で、京都へ結ぶ近道への分岐点となった。「醒井宿」は『日本書紀』に登場する「居醒泉(いさめがい」が醒井の地名の由来と言われ、「柏原宿」は『太平記』に既に記載されている宿場である。
彦根市の人気マスコット「ひこにゃん」の、誕生日(4月13日?)であったが会えなかった。・・違うマスコットに遭遇!
1606年(慶長11年)彦根城天守が完成し、佐和山藩主:井伊直勝(直継)が佐和山城から彦根城へ居城を移した。鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)で、山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、「金亀城」とも呼ばれた。
元々は「今浜」と呼ばれていたが、1575年(天正3年)頃に羽柴秀吉が「長浜」と改称したとされる。羽柴秀吉が「長浜城」の城下町として整備し、大通寺(長浜御坊)の門前町・北国街道や琵琶湖水運の要衝として発展した。「姉川古戦場」など戦国時代の史跡が多く、国友は近世に国内有数の鉄砲生産拠点として栄えた。
「長浜城」は1573年(天正元年)に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、小谷城で使われていた資材や竹生島に密かに隠されていた材木等を使用し築城を開始した。
「木之本町」(現在:長浜市)はかつて滋賀県伊香郡に存在した町で、北国街道と北国脇往還の分岐点があり、古くから交通の要衝・宿場町として栄えた。・・名前の由来の「木之本地蔵院」がある。
「賤ヶ岳」は滋賀県長浜市(旧木之本町)にある標高421mの山で、「賤ヶ岳の戦い」等の多数の史跡がある。
「余呉湖」は湖面が穏やかな事から「鏡湖」とも呼ばれ、日本最古の天女伝説の地である。(余呉では柳に羽衣を掛けた)
「栃ノ木峠(標高:538m)」は長浜市との県境に跨る峠で、名前の由来は峠付近に栃の大木があったと言う説が有力。(諸説有る)
「今庄宿」はかつて北陸街道で栄えた宿場町で、江戸時代には多くの酒屋があり、現在も江戸時代から続く酒蔵が4つある。(坂本龍馬も立寄る)