旅:日本の街道10 長崎街道2-2(2020.6.30)
「長崎街道」は江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小(北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。江戸時代の長崎街道に沿って走る国道200号や、国道3号及び国道34号の通称としても用いられる。
江戸時代に鎖国政策の下で幕府が日本で唯一、外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として重視された。
筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代や、長崎奉行や西国筋郡代の交代、更にオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられた。
1572年(元亀3年)に大村純忠(大村家養子)と対立していた武雄領主:後藤貴明(大村家嫡男)等に三城城を包囲されたが、純忠以下寡兵ながら持ちこたえた。・・「三城七騎篭り」
1587年(天正15年)キリシタン大名:大村純忠は豊臣秀吉の九州征伐の際に、嫡子:大村喜前を秀吉軍に参陣させ領土を安堵された。秀吉死後政情不安に備えて「玖島城」の築城に着手し、1599年(慶長4年)に三城城から居城を移した。
「眼鏡橋」は諫早公園内の池に架かる石造二連アーチ橋で、1839年(天保10年)現在地から約500m離れた本明川に架けられた。「水害でも流されない頑丈な橋」を目指し、長崎の眼鏡橋を参考に架けたと言われる。
「日見峠」は長崎市にある峠で、長崎街道経由で長崎市街地に入る要衝で「西の箱根」と呼ばれた。
長崎氏は桓武平氏千葉流(九州千葉氏)の流れを汲む氏族であり、「長崎県」の地名の由来になった事で知られる。五島列島・壱岐島・対馬など数多くの島々を含み、47都道府県中最も島が多いことで知られる。
「オランダ坂」は「誠孝院前の坂」「活水坂」「活水学院下の坂」の三つの坂の総称で、異国情緒を伝える15棟の洋館群が建ち並び、眼下に長崎港を臨景観に恵まれたロケーションにある。
「旧グラバー住宅」は南山手の丘上の見晴らしの良い地に建ち、親日家のグラバーは日本人:ツルを妻とし、1911年(明治44年)に没する迄日本に留まった。
彼はグラバー商会を設立して茶や絹の輸出と船舶・武器の輸入に従事し、薩摩藩・長州藩や後の明治政府の要人等と関係が深かった。
「大浦天主堂」はカトリックの教会堂で、江戸時代幕末の開国後1865年(元治2年)に建立された。
1865年(元治2年)浦上の住民十数名が天主堂を訪れ、一人の女性が神父に近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」と囁き、カトリック教徒である事を告白した。(イザベリナ杉本百合)
「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世にもたらされ、教皇は感激してこれを「東洋の奇蹟」と呼んだと言う。
「眼鏡橋」は中島川に架かる石造二連アーチ橋で、1634年(寛永11年)中国から来日した黙子如定(興福寺:2代目住職)によって架けられた。黙子は中島川の氾濫のたびに橋が流失されるのを見かねて、中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたと言われる。
「崇福寺」は興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられ、長崎に4つある唐寺の一つである。
「長崎新地中華街」は横浜中華街・南京町中華街とともに、日本三大中華街と称される。