旅:日本の街道12 奥州道中3 2-2(2020.7.12)
「奥州道中」は江戸時代の五街道の一つで、江戸日本橋を起点として「千住」から「白河」へと至る街道である。下野国「宇都宮宿」以南の区間は「日光街道」と共用されており、「宇都宮宿」伝馬町の追分で「日光街道」と分岐していた。
五街道としての「奥州街道」は正式には「奥州道中」と言い、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
江戸時代には江戸と陸奥国さらには蝦夷地間の物流が増加し、白河はその中継地点として賑わい、下野国「宇都宮」に次ぐ人口を擁するなど繁盛した。
奥州市は2006年(平成18年)に、水沢市・江刺市の2市及び胆沢郡の前沢町・胆沢町・衣川村の2町1村が新設合併して誕生した。
「黒石寺」は729年(天平元年)東北地方初の寺院として、行基が開いたとされる。蝦夷征伐による兵火により焼失し、807年(大同2年)に坂上田村麻呂により再興された。849年(嘉承2年)に円仁が中興して、現在の寺号となったとされる。
「胆沢城」は坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の「後三年の役」の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。
「江刺市」は水沢市・胆沢郡胆沢町・前沢町・衣川村と合併して、奥州市となり消滅した。胆沢郡の前方を意味するイサキ(胆前)が転訛したとする説(諸説ある)
「金ケ崎町」は古代には大和朝廷の蝦夷征伐や「前九年の役」「後三年の役」等の戦場となり、中世には胆沢郡主:柏山氏が「大林城」に居城して胆沢地方一帯を治めた。
「花巻」は中世には「鳥谷ヶ崎」と呼ばれ、「花の牧」という名馬を産する牧場があった事からと言われる。(諸説あり)
「花巻城」は古くは鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、1613年(慶長18年)に北松斎が死去する迄、「花巻城」及び城下町の整備に努めた。その後、陸奥国盛岡藩:南部利直は次男:政直に2万石を与え花巻城主とし、政直は「花巻城」を近世城郭として完成させた。
「花巻市」は宮沢賢治生誕の地で、岩手県の名物「わんこそば」発祥の地である。
「チャグチャグ馬コ」(毎年6月)は、「鬼越蒼前神社」(滝沢市)を信仰とするお祭です。100頭ほどの馬が、蒼前神社から八幡宮(盛岡市)迄14kmの道のりを行進します。
馬の艶やかな飾り付けと沢山の鈴が特徴で、歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来と言われている。馬の飾りは、大名行列に使われた「小荷駄装束」に端を発すると言われる。
「盛岡城」は別名:不来方城であると一般に理解されているが、厳密には「盛岡城」の前身であり、両者は別の城郭である。南部氏の臣下:福士慶善淡路が不来方の地に設けた、「慶善館」が本来の「不来方城」である。
「十六羅漢」は吹浦海禅寺の21代:寛海和尚が、仏教の隆盛と衆生の救済・事故死した漁師の供養と海上安全を願って、1864年から5年の年月をかけ、1868年に完成させた。
「盛岡八幡宮」は1062年(康平5年)、源頼義が安倍氏討伐の際に、戦勝を祈願して「石清水八幡」を勧請したのに始まると伝えられる。
1596~1615年(慶長年間)に総石垣の城としてほぼ完成し、南部利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。
1708年(宝永5年)に盛岡南部藩の上席家老:北監物の屋敷内の庭にあった花崗岩の巨石が、落雷を受けて割れ目ができた。
「石割桜」はその割れ目に「エドヒガンザクラ」という桜の種子が入り込み、成長したという伝承が残っている。(直径:約1.35m・樹齢:360年以上)
「上の橋」は南部氏によって架設された木造土橋であり、奥州道中の延長である「松前街道」に係る重要な橋である。(長さ:57m・幅:12m)
「報恩寺」は1362年(貞治元年)に開基:南部守行・開山:通山長徹(曹洞宗の寺院)により、1394年(応永元年)に南部守行によって陸奥国三戸郡に創建されたと伝えられる。
1601年(慶長六年)南部家27代:南部利直の時、盛岡に移るに当たり「報恩寺」も現在地に移された。