旅:日本の街道14 東海道2 2-1(2020.8.13)
「東海道」は江戸から京までの126里余(約495.5km)を、53の宿でつなぐ日本の大動脈です。大和朝廷が東国支配のために設けた道を、ほぼ踏襲して整備された。1185年(文治元年)に源平の争乱に勝利した源頼朝が、本拠とした鎌倉と京を結ぶ道を整備した。
1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いに勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、その治世の初期に政治・軍事上の動脈として五街道を定めた。そして宿駅制度の充実をはかり、近世の東海道を完成させていった。
江戸・日本橋を発った「東海道」は、箱根の関所を越すと、伊豆の三島の宿を経て駿河国に入る。53の宿場のうち12の宿場のある「駿河路」は、沼津からほぼ現在の国道1号線に沿って進み、富士川や安部川を渡り東海道きっての難所、大井川を前にした島田宿に至る。
「箱根」は静岡県に近い神奈川県南西部の一角で、箱根カルデラ近辺の一帯を指す地名である。古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所「箱根峠」のふもとには宿場や関所が置かれた。
深い杉木立のなか、箱根山中を貫く街道の随所に残されている石畳の道は、1680年(延宝8年)最初に石畳が敷かれ、1863年(文久3年)に全面的に補修された。・・講談社の本を引用
「三島」は律令時代には伊豆国の国府が置かれ、伊豆府中とも呼ばれた。江戸時代には東海道三島宿の宿場町となり、箱根峠越えの前後の休息地として賑わった。
「三嶋」とは伊豆大島・三宅島等から成る伊豆諸島を指すと言われ、主祭神は伊豆諸島の開拓神である。祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)で、2柱は「三嶋大神」又は「三嶋大明神」と総称される。
近年の研究では三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記の大山祇命・積羽八重事代主神とも後世の付会とする見方が有力視される。
「沼津」は東海道の陸路と海路を繋ぐ交通拠点で、江戸時代には沼津城が築かれ東海道の宿場町として栄えた。
「吉原宿」は当初現在のJR吉原駅付近にあった(元吉原)が、1639年(寛永16年)の高潮により被害を受けた事から、2度場所が移され現在の吉原本町に移転した。
「由比」は16番目の宿場町であり、同地で産出される海産物や果物を運び出すには鉄道が不可欠と考え、1913年に再び駅設置の請願書を鉄道院に提出し、2年半後に認められて駅が設置される事になった。
「薩埵峠」は由比宿と興津宿の間に位置し、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次・由比』にも残されるほどの絶景である。興津地区と由比地区の境界付近は薩埵山が海へと突き出す地形となっており、古くは海岸線を波にさらわれぬよう駆け抜ける必要があった。
1607年の朝鮮通信使の江戸初訪問の際に、山側に迂回コースとして造られたのが「薩埵峠」である。
薩埵という名称が「去った」と読めて語感が悪いという理由で、江戸時代末期の和宮の徳川家茂への婚儀の行列はここを通らず、中山道を通過した。
「興津」は江戸時代には17番目の宿場町として発展し、地名の由来は興津宗像神社祭神の1柱:興津島姫命が、この地に住居を定めた事からと言われている。その他平安末期から興津氏が居住していたので、その名を地名にしたとの説もある。
「清見寺」は奈良時代の創建と伝えられ、鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。
「三保松原」は日本新三景(大沼・三保松原・耶馬溪)や日本三大松原(三保松原・虹の松原・気比の松原)のひとつとされ、平安時代から親しまれている三保半島の東側に広がる景勝地である。(総延長:7km・松林:54.000本)
何百年にわたり流された土砂(漂砂)が静岡海岸や清水海岸に100mを超える幅の砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島及び「三保松原」の砂浜を形成した。
羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」がある。