旅:日本の街道14 東海道2 2-2(2020.8.29)

「東海道」は江戸から京までの126里余(約495.5km)を、53の宿でつなぐ日本の大動脈です。大和朝廷が東国支配のために設けた道を、ほぼ踏襲して整備された。1185年(文治元年)に源平の争乱に勝利した源頼朝が、本拠とした鎌倉と京を結ぶ道を整備した。

「箱根」~「由比」・・講談社参照

1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いに勝利して江戸に幕府を開いた徳川家康は、その治世の初期に政治・軍事上の動脈として五街道を定めた。そして宿駅制度の充実をはかり、近世の東海道を完成させていった。

「由比」~「島田」・・講談社参照

推古天皇(592~628年)の頃、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め静岡茶の始祖:円爾(えんに 、聖一国師)等、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。

「久能山東照宮」・・講談社参照

家康の遺命は久能山への埋葬及び日光山への神社造営であったので、日光山の東照社(現:日光東照宮)もほぼ同時期に造営が始まっている。

「久能山東照宮」・・ ibukivideo提供

「府中宿」は19番目の宿場で、街は城下町である駿府の一角を成していた。
旧東海道はJR静岡駅の北側に位置し、「駿府城」との間を抜け安倍川に至る。川の手前の西見付(大坂・京側の番所)があった弥勒辺りには、「安倍川餅」の売店が存在する。

「府中」~「丁子屋」・・講談社参照

名物が「安倍川餅」の両側の茶店は、いずれも小奇麗で、・・(途中略)
茶屋女「名物餅をあがりゃあし。五文均一をあがりゃあし」・・十返舎一九の「東海道中膝栗毛」(上 P131)を参照。(126Pにも北八「この重詰は・・)

東海道中膝栗毛上巻

14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地に今川館が築かれ、今川領国支配の中心地となった。16世紀には武田氏と後北条氏の同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され城館は失われた。
徳川時代に「駿府城」は築城し直され、この時に初めて天守が築造されたと言う。天下普請によって大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が完成した。

「駿府城跡」・・shizuoka_city提供

「静岡浅間神社」は神部神社(祭神:大己貴命)・浅間神社(祭神:木之花咲耶姫命)・大歳御祖神社(祭神:大歳御祖命)の三社からなり、三社はいずれも独立の神社として祭祀が行われている。

「静岡浅間神社」・・ふじのくにメディアチャンネル提供

歌川広重が描いた「丁子屋」は本陣跡から西へ3分ほど歩いた所にあり、丁子とは当時貴重品であった香辛料のクローブの事で、丁子の絵柄が含まれる家紋を持つ商家が名乗った。丁子に関する商売を行う者が屋号として、使うケースもあった。(とろろ汁・丁子油・香料・漢方薬等)

「丁子屋」・・講談社参照

「丁子屋」の創業は戦国時代末期の1596年(慶長元年)で、江戸時代初期から400年以上続く、静岡で最古のとろろ汁の店です。・・当初はお茶屋であったと言われる。
歌川広重の東海道五十三次・俳諧集『猿蓑』(1691年)にある「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」の松尾芭蕉の句や、十返舎一九「東海道中膝栗毛」のとろろ汁のシーンで、名物になったと言われる。

「丁子屋」・・ machilogmovie提供

「宇津ノ谷峠」は日本の東海地方東部に所在する宇津山の南側にある峠で、中世から交通の要衝で和歌にも詠われ、歌舞伎の怪談劇『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台としても知られる。・・動画で「丁子屋(ちょうじや)」を、「じょうじや」と聞こえる。?

「宇津ノ谷峠」・・テレビ神奈川提供

江戸時代に入ると宿場・参勤交代の制度とともに東海道は整備され、「宇津ノ谷峠」周辺にも「鞠子(丸子)宿」と「岡部宿」が置かれ、峠付近にも宿や商店が立ち並んで間の宿の役割を果たした。

「古事記」「日本書紀」で日本武尊の東征神話の舞台となった焼津市「花沢の里」。この里を横断する道は、奈良から平安時代にかけての東海道と推定されており、「やきつべの小径」と呼ばれた。・・講談社参照

焼津市「花沢の里」・・講談社参照

「岡部宿」は品川宿から数えて21番目に位置する宿場町で、道中屈指の難所である「宇津ノ谷峠」を静岡市(丸子宿)側から越えると、最初に到達する宿である。
「藤枝宿」は安倍川と大井川に挟まれた地域で、江戸時代には田中藩の城下町として栄えた。

「宇津ノ谷」~「田中城下屋敷」・・講談社参照

「田中城」は1537年(天文6年)に駿河今川氏によって築かれ、江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた。(前身:徳一色城)
1616年(元和2年)1月に徳川家康は「田中城」に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。(食中毒説)・・最近は胃癌説が有力となった。

「田中城」・・moka studio2020 提供

「島田」は江戸時代には東海道の宿場町として盛え、大井川は江戸の防衛上の理由から架橋を禁止されたため、人足による川越制度が敷かれた。

「島田」~「大井川」・・講談社参照

箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川(箱根馬子唄)の一節
が有名で、川止め(雨などで川越が禁止される事)の時、両岸の「島田宿」と「金谷宿」は「さながら江戸のよう」な賑わいを見せた。

島田大祭(帯まつり)・・堀江栄提供

「智満寺」は寺伝によれば奈良時代の771年(宝亀2年)に、下野国の広智がこの地に草庵を結んだのが始まりとされる。広智は鑑真の法孫にあたる人物で、平安時代以降のこの寺院は修験道の霊場である山岳寺院として栄えた。

「島田」~「大井川」・・講談社参照