旅:日本の街道 甲州道中2 甲斐路2-1(2020.11.20)
「甲州街道」は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。江戸(旧本橋)から内藤新宿・八王子・甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流する迄44次の宿場が置かれ、江戸から甲府までの37宿を表街道、甲府から下諏訪までの7宿を裏街道と呼んだ。
近世初頭には「甲州海道」と呼称され、1716年(正徳6年)4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。中馬による陸上運送が行われ、江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。
「笹子峠」は山梨県大月市と甲州市の境にある峠(標高:1.096m)で、「甲州街道」の江戸と下諏訪のほぼ中間の、「黒野田宿」と「駒飼宿」の間で最大の難所と言われた。源頼朝もここを通った際に矢を射たとも言われている。
本能寺の変により発生した天正壬午の乱(1582年)を経て、甲斐は三河国の徳川家康が領する。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、同年7月に武田勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、「景徳院」を創建した。
「駒飼宿」は山間の小さな宿場で、本陣・脇本陣が各1軒、旅籠も6軒であった。天狗橋を渡るとすぐの右側に比較的新しい「芭蕉句碑」がある。
「大善寺」は山梨県甲州市勝沼町にあり、本尊である薬師如来像の様式等から、創建は平安時代前期と考えられている。
「勝沼宿」は本陣1軒・脇本陣2軒であったが、旅籠は23軒と賑わった宿場であった。 それ以前は武田信虎(信玄の父)の弟:武田信友が居を構え、在所名そのままに勝沼氏と称して武蔵相模口の守りを固めていた地域である。
「塩山」は市域南西部に位置する「塩の山」に由来し、古代から「さしでの磯」(山梨市)とともに歌枕として知られる。
「放光寺」は山梨県甲州市塩山藤木にある寺院で、前身は平安時代に大菩薩山麓の一ノ瀬高橋に建立されていた「高橋山多聞院法光寺」であるという。
「恵林寺」は山梨県甲州市塩山小屋敷にある寺院で、鎌倉時代の1330年(元徳2年)に、甲斐国の守護職:二階堂貞藤が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派:夢窓疎石を招き開山し、二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。
甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元・青山慈永・龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられ、応仁の乱で荒廃するが甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
「栗原宿」(別称:下栗原宿)は山梨県山梨市下栗原に所在した「甲州街道」の宿駅で、成立時期は不明だが「勝沼宿」等が新規に宿駅となった1618年(元和4年)に宿立てされたと考えられる。
「石和」は武田信玄の父:信虎が躑躅ケ崎(つつじがさき)に城を築くまでは、武田氏の本拠地であり甲斐国の政治の中心地でもあった。
「東光寺」の「東光」は東方浄瑠璃世界(浄琉璃世界・琉璃世界・琉璃光世界・東方浄土)を意味し、薬師如来を本尊とする寺が多い。
「天津司の舞」は山梨県甲府市小瀬町の「天津司神社」に伝わる、等身大でできた9体の木造人形を用いて田楽舞を演じる、神事芸能・伝統芸能である。
中世に起源を持つ傀儡田楽(くぐつでんがく)の一種であると考えられており、地元ではオテヅシさん、デッツクさんと呼ばれる。
「甲斐善光寺」は山梨県甲府市善光寺にある浄土宗の寺院で、1558年(永禄元年)甲斐国国主:武田信玄によって山梨郡板垣郷(現:甲府市善光寺)に創建された。
「甲府城」は山梨県甲府市にあった城(別名:舞鶴城)で、徳川家康は甲府・躑躅ヶ崎館を甲斐における支配的拠点としていたが、1583年(天正11年)には家臣:平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、甲府城の築城を企図したと言われる。