日本の街道17: 萩往還と北浦街道1-2(2021.9.15)
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将とされたため、敗戦後、毛利の領国は中国地方7ケ国から長門・周防・の2ケ国に減ぜられ、日本海側の萩が城下として定められた。そのため毛利輝元は、萩を中心に街道整備に務めた。
「萩往還」はこうした街道のなかで幹線道路とされ、萩と瀬戸内側の三田尻(防府市)をほぼ一直線に12~13里(約50Km)で結んだ。山口県中央を幅二間(3.6m)前後で南北に貫くこの「萩往還」には、国道262号がほぼ重なる。(講談社参照)
「北浦街道」は長州藩の領内最大の商港である赤間関(下関市)と萩を結ぶ「赤間関街道」の一つで、国道191号にほぼ重なるこの道は、萩から出発し日本海沿いに赤間関に達する。
およそ104Kmの海沿いの街道で、江戸時代には萩と赤間関をつなぐ「赤間関街道」と「中道筋」「北道筋」があった。
「萩城(別名:指月城)」は、毛利氏が広島城に代わる新たな居城として1604年(慶長9年)に築いた城で、完工は1608年(慶長13年)だが、築城者である毛利輝元は、1604年(慶長9年)12月に未完成のまま入城した。
「江戸屋横丁」の町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていました。御成道に面して藩の豪商・江戸屋・伊勢屋・菊屋の商家が並んでいたため、城下町にある3本の横町にはそれぞれの名が残されています。
「江戸屋横丁」には、維新の三傑の一人である木戸孝允の旧宅や、蘭方医:青木周弼の旧宅・高杉晋作・伊藤博文ゆかりの「円政寺」等が並び、黒板塀の風情ある横町となっています。
松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在:山口県萩市)に存在した私塾である。
吉田松陰(杉百合之介の次男)は長州藩士で思想家・教育者・山鹿流兵学師範で、「松下村塾」で明治維新に重要な働きをする多くの若者へ影響を与えた。
「留魂録」と「永訣書」
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂」
・・この身はたとえ武蔵野地に朽ち果てようとも、日本を思う魂だけでも、この世にとどめて置きたい。
二十一回猛子の「二十一」の由来は、杉の木を分解すると「十」と「八」で18、三が3で計21。吉田は士と十で21、ロと口で回という意味である。・・吉田松陰(旧姓:杉 叔父:吉田賢良の養子)
1410年(応永17年)に大内氏一族で長門国深川城主:鷲頭弘忠が、能登国總持寺禅僧:石屋真梁を招聘し、城内に「大寧寺」の前身となる「康福寺」を創建したと伝える。
日本の童謡詩人:金子 みすゞ(1903年誕生)は山口県大津郡仙崎村(現:長門市仙崎)の生まれで、代表作には「私と小鳥と鈴と」や「大漁」などがある。
「赤間神宮」は山口県下関市にある神社で、壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。
「功山寺」は1327年(嘉暦2年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗:長福寺として創建された。開基は、北条時仲と推定されている。
幕末の1863年(文久3年)「七卿(ひちきょう)落ち」で京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在し、高杉晋作は当寺で挙兵した。(回天義挙)