日本の街道19:京の大路・小路1-2(2023.1.19)

桓武天皇により、「長岡京」に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の「長安城」を模して793年(延暦12年)から建設され、翌794年(延暦13年)に遷都された。

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新都建設地の選定に密かに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月・5月に狩猟を装って、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。翌793年(延暦12年)には、大納言:藤原小黒麻呂や左大弁:紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。

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「祇園巽橋」は東大路通りの西の白川に架かる橋で、沢山の茶屋が軒を連ねています。鎌倉初期の「八坂神社」の門前町で、祇園の町が広がる。

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「六波羅蜜寺」は真言宗智山派の寺院で、平安時代の歴史書である『扶桑略記』によれば、「踊り念仏」で知られる市聖(いちのひじり)・空也が平安時代中期の951年(天暦5年)に造立した十一面観音を本尊とする道場に由来し、当初「西光寺」と称したという。

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「三十三間堂」は天台宗の寺院で、建物の正式名称は「蓮華王院本堂」です。後白河上皇(1127-1192年)が離宮として建てた「法住寺殿」がありました。広大なその一画に「蓮華王院本堂」として建てられたのが「三十三間堂」で、その東隣に上皇が眠る「法住寺陵」あります。

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「長楽寺」は時宗(遊行派)の寺院で、805年(延暦24年)に勅命により最澄が「延暦寺」の別院として創建したのに始まるという。

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『平家物語』の「灌頂巻」によると、1185年(文治元年)には「高倉天皇」の中宮で安徳天皇の生母:建礼門院(平徳子)が「壇ノ浦の戦い」の後の5月1日に当寺に到来し、当寺の僧で法然の弟子:阿証房印西(印誓)について出家したという。

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「青蓮院」は天台宗の寺院で、比叡山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっている。

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比叡山東塔の南谷(現・延暦寺第三駐車場)にあった最澄が建立した「青蓮坊」がその起源である。

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「南禅寺」は臨済宗南禅寺派の大本山の寺院で、開山:無関普門(大明国師)で開基:亀山法皇です。日本最初の勅願禅寺で京都五山及び鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持っています。

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「禅林寺」は浄土宗西山禅林寺派の総本山の寺院で、通称:永観堂の名で知られる。紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。

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「龍安寺」は臨済宗妙心寺派の寺院で、984年(永観元年)に建立された円融天皇の御願寺である「円融寺」の境内地であった。「円融寺」は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。

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この山荘を細川勝元が譲り受け、1450年(宝徳2年)敷地内に「龍安寺」を建立した。

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「鹿苑寺(ろくおんじ)」は臨済宗相国寺派の寺院で、建物の内外に金箔が貼られていることから「金閣寺」とも呼ばれている。

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正式名称は「北山鹿苑禅寺」で、開基:足利義満(第3代将軍)の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。

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「浄土院」は浄土宗の寺院で、五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称される。・・「慈照寺(銀閣寺)」の北に隣接している。

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「真正極楽寺」(真如堂)は天台宗の寺院で、984年(永観2年)延暦寺の僧:戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊:阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである。

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「慈照寺」は臨済宗相国寺派の寺院で、「観音殿」から別名:銀閣寺として知られている。

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