日本の街道20:会津街道1-2(2023.2.1)
「会津街道」は、栃木県今市から福島県会津若松まで約100km、さらに北上して山形県米沢までの約55kmの、関東と東北を結ぶ道である。
今市から会津若松は、「会津西街道」「下野街道」あるいは「南山通り」と呼ばれ、会津若松から米沢は「米沢街道」「会津街道」とも呼ばれた。
「関山宿」は火玉峠と呼ばれた「氷玉峠」や「大内宿」に繋がる「大内峠」を控え、会津城下の入口に当たる拠点として重要視された。1641年(寛永18年)に周辺にあった上小松村と合併し、宿場町として整備された。
「福永宿」は会津若松城下から最後の宿場町で、城下に近かった事から比較的に大きな宿場では無かったようです。
蒲生氏郷は黒川を若松と改め故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設・武家屋敷を分離させた町割、7層の天守を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた。
現在の会津若松市は、私が担当していた時とは様変わりしています。
今市から会津に向かう街道は、「猪苗代湖」の西側10kmほどを北に進む。東には、標高:約1.820mの磐梯山が、旅人を見守るようにそびえる。
「会津城」は会津若松市追手町にある城跡で、地元では別名:鶴ヶ城と呼ばれることが多い。藩主:会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり、幕末には戊辰戦争の激戦地となった。
飯盛山には藩校:日新館に学び戊辰戦争に巻き込まれ自刃した、白虎隊(16歳〜17歳)・士中二番隊:19名の墓がある。自刃した20名のうち、飯沼貞夫は奇跡的に命をとりとめた。
「さざえ堂」は1796年(寛政8年)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ:16.5mの六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。
蒲生氏郷に従い会津に入り、江戸時代に会津藩の御用達をつとめた、旧家河野家:此花酒造の酒造用具などが展示されています。同家の古文書類や家宝などを展示した、町方民俗資料館も併設しています。
「勝常寺」は真言宗豊山派の寺院で、平安時代初期の810年-824年(弘仁年間)に法相宗の学僧:徳一(760?年 – 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。
「熊倉宿」は若松より二つ目の宿場で、1601年(慶長6年)宿駅の設置が認められた。代官所・本陣・問屋も設置され、市場の開設とともに物資の集積により、経済の中心地として繁栄を極めた。
「大峠」の手前会津盆地の北端に位置する「喜多方」は、戦国末期にはすでに定期的な「六斎市」も開かれ、会津盆地北部の中核的な経済的都市になっていた。
「願成寺」の創建は鎌倉時代初期の1227年(嘉禄3年)に佐原十郎義連の庇護の下で実成和尚によって開かれたのが始まりとされ、師:隆寛律師の遺骨を迎え開山としたと伝えられています。
「綱木宿」は1852年(嘉永5年)に長州藩を脱藩し東北遊学を行った吉田松陰が、難所である「諏訪峠」を越えて綱木宿の「山城屋」に宮部鼎蔵(熊本藩士 1864年 池田屋事件で新撰組に襲撃され自刃、享年45歳。)と共に宿泊しています。
「笹野観音堂」は真言宗豊山派の寺院で、本尊:千手観音で三十三箇所観音霊場19番札所である。斜平山(なでらやま)に坂上田村麻呂が観音堂と羽黒権現を建立後、810年(弘仁元年)に現在の地に移ったと伝えられている。・・別名「あじさい寺」
「米沢宿」は上杉家30万石(後に15万石)の「米沢城」の城下町として発展した町で、城下には上杉神社や上杉家廟所・法音寺・林泉寺・法泉寺・松岬神社など上杉家縁の史跡が点在しています。
「米沢城」は戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。