関ケ原合戦場見学会③(2023.6.22)

次に向かったのは、陣場野公園「徳川家康最後陣地」です。(午後2時15分)

関ケ原合戦「史跡めぐり」6番からです。

「徳川家康最後陣地跡」には、大樹寺13世:登誉上人の教え「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の旗が建てられています。(午後2時15分)

この場で床几に腰掛け、味方が討ち取ってきた敵将を自ら首実検した。・・案内板参照(午後2時15分)

史蹟「関ケ原合戦塲 徳川家康最後陣地」の石碑が、陣場野公園内に設置されています。(午後2時16分)

次は「田中吉政陣跡」で、田中吉政は約三千の兵を率いて細川忠興や黒田長政らとともに石田三成と戦い、激戦の末、最後は諸将と共同して石田隊を壊滅させている。・・案内板参照(午後2時21分)

休憩も兼ねて近くの、「岐阜関ケ原古戦場記念館」(史跡めぐり 5番)に立ち寄りました。(午後2時24分)

別館ではお土産を販売しており、参加者の多くの人が購入しました。・・私は今回は購入せず。(午後2時25分)

1階フロアーには、「結城秀康」「上杉景勝」「直江兼続」の甲冑が置かれている。・・案内板の一部が人で見えない?(午後2時34分)

次は「岐阜関ケ原古戦場記念館」の南にある、「東首塚」(史跡巡り 3番)です。(午後2時46分)

企画者:名知さんの説明を聞きましたが、参加者の一人が霊感を感じ気持ち悪がっていました。(午後2時47分)

史蹟「関ケ原古戦塲 東首塚」の、石碑が設置されています。・・松平忠吉・井伊直政陣跡の敷地内です。(午後2時48分)

同じ敷地内に「首級墳碑」(しゅきゅうふんひ)が、墓石のように置かれています。(午後2時48分)

文化14(1817)年、関ケ原宿本陣の主を務める古山兵四郎は、関ケ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧し、首級墳碑を建設した。・・案内板参照(午後2時48分)

さらに奥に進むと茨原「松平忠吉 井伊直政 陣所古趾」の石碑が設置されています。(午後2時49分)

松平忠吉・井伊直政は、現在のJR関ケ原駅付近に約6千の兵を率いて布陣した。忠吉はこの戦いが初陣で、直政が後見役を務めた。(史跡めぐり 2番)・・案内板参照

車で移動して史蹟「関ケ原合戦塲 決戦地」の石碑の前に到着し、名知さんから説明を受けました。・・鉄砲の球は出土したのか?(午後3時1分)

現場では本当に決戦地か疑問の意見も出て、皆で色々語り合いました。・・関ケ原の西方にある山中村地区では?(午後3時2分)

史蹟「関ケ原合戦塲 決戦地」とされる場所から見えていた、笹尾山「石田三成陣跡」の麓に到着しました。・・これから登って行きます。(午後3時14分)

石田三成隊約6千は、西軍諸隊とともに前日の夜半に大垣城を出て、合戦当日の午前1時頃ここへ布陣した。・・案内板参照(午後3時15分)

「笹尾山・石田三成陣跡」(史跡めぐり 11番)から下を展望しましたが、薄っすらと靄(もや)がかかり良く見えません。(午後3時19分)

史蹟「関ケ原古戦塲 石田三成陣地」の石碑が、設置されています。(午後3時19分)

その他にも、笹尾山「石田三成陣所古趾」の石碑も設置されています。・・これの方が古いのかな?(午後3時20分)

「笹尾山・石田三成陣跡」には大型パネルで、各武将が陣を敷いた場所が書かれています。・・本当にそうであったのか?(午後3時22分)

参加者で写真撮影を行ったが、2名は足が悪く麓の車の中で待機しました。(午後3時25分)