船田合戦:オリジナル「陣笠」の制作(2023.11.6)

1978年(昭和53年)3月石丸利光の子孫三十余人が、最後の合戦の場となった「舎衛寺」へ集まり、陣没した祖先の追善供養を営んだ。・・石碑「史跡 船田合戦終焉之地」を舎衛寺に設置。

2022年(令和4年)6月5日「船田合戦戦没者供養祭」が、舎衛寺にて開催されました。・・中日新聞等に掲載。2024年(令和6年)4月7日(日)開催予定

「陣笠」の企画は「常磐歴史研究会」が行い、姫路市「陣笠工房」様に12個制作して貰いました。・・「船田合戦終焉之地 舎衛寺」文字と金の家紋

「船田合戦」は1495年の岐阜市加納「正法寺の戦い」と、1496年の岐阜市城田寺「城田寺の戦い」を言います。・・土岐家家紋入り「陣笠」を、赤色:2個・黒色2個制作

「船田合戦」勝者:土岐政房(嫡男) 敗者:土岐成頼(父 美濃守護 舎衛寺に隠居)・土岐元頼(側室の子 四男 舎衛寺で自害)の家紋です。・・「城田寺の戦い」(1496年)が終焉

「船田合戦」勝者:斎藤妙純(次男 利藤と異母兄弟) 敗者:斎藤利藤(長男 美濃守護代)・毘沙童(五男 斎藤利藤の子)の家紋です。・・美濃斎藤家紋入り「陣笠」を、赤色:2個・黒色2個制作

「毘沙童」は後に、斎藤道三の菩提寺「常在寺」住職(日運)となる。(斎藤道三の父親と師弟関係)

「船田合戦」敗者:石丸利光(美濃小守護代)石丸利元(利光の子)石丸利高(利光の子)石丸小六(利光の子 遺児で佐野家に育てられる)の家紋です。・・石丸家の末裔の方に、小六の墓を教えて貰いました。

石丸利光の妻は佐野家出身で、家紋は「揚羽蝶」(丸は無し)です。・・舎衛寺の元住職も、家紋は「揚羽蝶」です。

石丸家の末裔の人が制作した外諸記録も写真撮影を行ったが、枚数が多くて十分纏めきれていません。・・1965年(昭和40年)頃から石丸家末裔の方々が作成を開始(写真30枚)

佐野家末裔(石丸利光の妻)の方からの古文書を預かりましたが、「揚羽蝶」の家紋の入った黒いケースに入っていました。

手で触ると破れそうで、何故か徳川家の家紋の布にくるまれて有りました。

家系図の一部を見たところ、鏡島「乙津寺」北海住職と書かれてありました。・・「乙津寺」に訪問し住職と判明したが、佐野家出身とは現住職は知りませんでした。

終焉之地は城田寺「舎衛寺」(城田寺城)で、城田寺:城ケ峰には詰城「上城田寺城」も有りました。

「黒野城と加藤貞泰公研究会」と「常磐歴史研究会」等有志で、城田寺「城ケ峰」に登山をした時の写真です。・・「城ケ峰」の「権現社」です。

城田寺:城ケ峰にあったと思われる、舎衛寺(城田寺城)の詰城です。・・東海古城研究会資料参照