歴史探索:岐阜市長森~大垣市墨俣町(2024.9.8)
「長森城」は美濃国長森庄(岐阜市切通6丁目付近)にあった平安・鎌倉時代から戦国時代にかけての日本の城で、廃城後には同地に「切通陣屋」が築かれた。・・Wikipedia参照(午後1時7分)
1185年(文治元年)長森庄(現・岐阜市長森)地頭:渋谷金王丸が「長森城」を築城したと伝わる。南北朝時代の1339年(暦応2年)美濃国守護職:土岐頼遠が土岐郡(現・瑞浪市)からこの「長森城」に移り、城郭としての整備をする。・・Wikipedia参照(午後1時7分)
「長森城」の想像図ですが、「高田砦」も描かれています。・・長森史考参照
加納藩藩主:安藤信尹(信成の父)は乱行が原因で隠居を命じられ1755年(宝暦5年)安藤信成(加納藩第3代藩主)が家督を継ぐが、加納藩6万5000石より磐城平藩5万石に減転封させられ平藩藩主となる。・・Wikipedia参照(午後1時7分)
その後の実績により美濃国1万8千石が増やされこの地を治めるために、1803年(享和3年)11月「長森城跡」に「切通陣屋」が築かれる。この一帯をはじめ方県郡や、本巣郡にあった自領を支配していました。・・Wikipedia参照(午後1時10分)
「手力雄神社」の「火祭り」は岐阜県無形民俗文化財になっており、以前は良く見に行っていました。・・標柱がやや剥げています。(午後1時17分)
「手力雄神社」の拝殿で参拝後、以前より聞いていた「土岐頼遠」の墓を探すため拝殿右のお守り販売所に寄る事にしました。・・先客がいたので境内を散策。(午後1時18分)
岐阜市「手力雄神社」の鳥居ですが、神明鳥居となっています。仲間には神社の裏で待って貰っていたが、こちら側に駐車場が有ったので移動。・・各務原市にも同じ名前の「手力雄神社」が有ります。❓(午後1時19分)
切通陣屋跡(長森城跡)と岐阜市:手力雄神社までは、徒歩13分(950m)の距離に有ります。・・Googleマップ参照
神社に良くある狛犬と獅子ですが、岐阜市長森「手力雄神社」には3対置かれています。(午後1時19分)
国歌にもよまれている「さざれ石」が、「手力雄神社」にも置かれています。(午後1時21分)
「手力雄神社」の関係者の方に「伝・土岐頼遠」の墓の場所を聞いていたら、南濃から来た歴史好きな人が教えてくれました。・・上部が破損して下に置かれています。(午後1時22分)
木が沢山植えられている中に、墓は有りました。・・説明板もなく分かりにくいです。・・「長森史考」に記載されているが、誰の墓かは不明❓(午後1時24分)
大垣市墨俣町「明台寺」境内に有る、「斎藤利藤」「土岐悪五郎(康貞)」の墓を探しに来ましたが、廃寺なのか誰もいなくて場所が分かりません。❓(午後2時18分)
寺町界隈との案内版のように、お寺が集まっています。・・聞く人が誰もいません。(午後2時19分)
再度案内板の所に戻り通りかかった人に確認して、「明台寺」境内を探す事にしました。(午後2時23分)
「明台寺」本堂の奥に、土岐頼康(美濃国第三代守護)の弟の「土岐悪五郎(康貞)」の墓を見つけました。(午後2時37分)
その後「斎藤利藤」の墓を探しましたが見つからず、再度訪問する事としました。・・後日大垣市役所に確認して、「明台寺」境内に有る事を確認。(午後2時39分)
「墨俣一夜城跡」は1566年(永禄9年)木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が、一夜にして築いたと伝えられる。・・毎年桜の花見に来ています。(午後2時44分)