日本の街道18:中山道2-2(2023.1.7)
江戸日本橋を出発して、中山道は関東平野を北西に、大宮・熊谷から「碓氷峠」へ、中部山岳地帯をぬって、京の三条大橋を目指す。・・22番「岩村田宿」が掲載されていない。(「小田井宿」と「塩名田宿」の間)?
六十九次、全長約534kmの道のりは、古代の官道:東山道にほぼ沿っている。・・講談社参照
1601年(慶長6年)徳川家康が東海道五十三次を定め、翌年には中山道を制定。中山道は東山道に沿って、鎌倉街道や戦国時代の古道を改修して整備された。・・講談社参照
「長窪宿」は27番目の宿場で、宿で生活する人々が「窪」の字を敬遠し、久しく保つの意味の「久保」に縁起をかついだらしい。
1859年(安政6年)に宿方から代官所へ宿名変更の願書を出されたが、許可されなく明治になりようやく認められた。
「笠取峠」は 旧中山道および国道142号の峠で標高:900mで、「芦田宿」と「長窪宿」の間にあります。
旅人が上り坂で暑さと疲れのあまり、皆いつの間にか笠を取っていることから「笠取峠」と呼ばれるようになったと伝えられる。
「和田宿」は28番目の宿場で「和田峠」の入口にあたり、標高:820m余りの高地にある静かな山里である。
「和田峠」は長野県小県郡長和町と諏訪郡下諏訪町の間にある最大標高:1,531mで、峠の北側は千曲川を経る信濃川水系で水は日本海に注ぎ、峠の南側は諏訪湖を経る天竜川水系で水は太平洋に注ぐ。縄文時代には黒曜石の産出地として利用され、石鏃に加工された。
「下諏訪宿」は29番目の宿場で、「和田峠」の西の入口として「諏訪大社下社」の門前町として栄えた。・・「甲州街道」の終点にあたる宿場です。
「御柱祭」は「諏訪大社」における最大の行事で、正式には「式年造営御柱大祭」といい、寅と申の年に行われる式年祭である。
山中から御柱として樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し、長野県諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで曳行し社殿の四方に建てて神木とする勇壮な大祭である。
「塩尻宿」は30番目の宿場で、太平洋側から運ばれる南塩と日本海側の北塩、いづれもの集散地であった事に由来するともいう。
「塩尻峠」は長野県塩尻市と岡谷市の境にある諏訪盆地と松本盆地を隔てる峠で、地元では「塩嶺峠」とも呼ばれている。
「小松家」は1572年(元亀3年)この地(現在・塩尻市)に移り住んだ豪農:小松屋の旧住宅で、当時の民家としては珍しい茅葺寄棟造です。(300年ほど前に建てられた)
「洗馬宿」は31番目の宿場で、地名の由来は源義仲(木曽義仲)の家臣が義仲の馬の足を近くの清水で、洗い癒した事からと伝えられる。
「青松山長興寺」は室町時代に開かれた曹洞宗の寺院で、裏山の中には「木曽義仲」の母・小枝御前の墓所があり、江戸時代の池泉回遊式庭園は塩尻市指定名勝です。
「贄川宿」は33番目の宿場で、古くは温泉があって「熱川」と書いたが、温泉が枯れてからは現在の漢字を当てるようになった。