日本の街道19:京の大路・小路1-1(2023.1.16)

桓武天皇により、「長岡京」に代わる都として山背国(山城国)愛宕・葛野の両郡にまたがる地が選ばれ、中国の「長安城」を模して793年(延暦12年)から建設され、翌794年(延暦13年)に遷都された。

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新都建設地の選定に密かに入った桓武天皇は、792年(延暦11年)1月・5月に狩猟を装って、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。翌793年(延暦12年)には、大納言:藤原小黒麻呂や左大弁:紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。

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「大極殿」は古代の日本における朝廷の正殿で、宮城(大内裏)の「朝堂院」の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。・・万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。

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1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1.100年を記念して、京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。

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「平安神宮」の社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されて1895年(明治28年)に完成した。・・第50代:桓武天皇を祀る神社として創祀された。

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「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」は通称:下鴨神社と呼ばれ、「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は「賀茂神社(賀茂社)」と総称され、両社で催す「賀茂祭(通称:葵祭)で有名である。

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「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」は通称:上賀茂神社と呼ばれ、「賀茂社」は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。

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「護王神社」は和気清麻呂と姉:和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀する。境内にあるのは狛犬ではなく狛イノシシである。

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平安遷都の794年(延暦13年)時の内裏は、現在の「京都御所」よりも1.7km西の千本通り沿いにあった。現在は元「里内裏」の一つであった「土御門東洞院殿」の地である。

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「廬山寺(ろざんじ)」は天台圓淨宗の本山の寺院で、「紫式部」の邸宅跡として知られる。・・明智光秀が関係している。?

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比叡山延暦寺の中興の祖:良源(元三大師、慈恵大師)により、938年(天慶元年)平安京の北にある船岡山の南麓に、「與願金剛院」が創建される。

「羅城門」は本来は城壁である「羅城(らじょう)」に開かれた門の意味であるが、一般的には平城京・平安京の京域南端中央に正門として設けられた門を指す。

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「神泉苑」は東寺真言宗の寺院で、平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)。古代から中世にかけては東寺が管掌する雨乞いの道場となり、江戸時代に寺院となった。

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「北野天満宮」は旧称:北野神社で、通称:天神さん・北野さんとも呼ばれる。

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福岡県の「太宰府天満宮」とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。

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「平野神社」は平安京大内裏(平安宮)から北方の平野の地に鎮座する神社で、桓武天皇生母:高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として「平城京」に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って大内裏近くに移し祀られた事に始まると推測されている。

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「今宮神社」は別名「玉の輿神社」とも呼ばれ、794年(延暦13年)の平安遷都以前から疫神:スサノオを祀る社(現・摂社疫神社)があったとされる。
八百屋に生まれた「お玉」が第3代将軍:徳川家光の側室となり、5代将軍:綱吉の生母・桂昌院として従一位となった。・・「玉の輿」の由来になったとの説がある。

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