日本の街道20:会津街道1-1(2023.1.23)
「会津街道」は、栃木県今市から福島県会津若松まで約100km、さらに北上して山形県米沢までの約55kmの、関東と東北を結ぶ道である。
今市から会津若松は、「会津西街道」「下野街道」あるいは「南山通り」と呼ばれ、会津若松から米沢は「米沢街道」「会津街道」とも呼ばれた。
「今市宿」は日光街道の20番目の宿場町で、もと今村と呼ばれていたが住民が宿に集まって活況を呈し、定市が開かれるようになったことから「今市宿」となったと云われている。
「藤原宿」は「今市宿」から街道を北に向かった場所で、「龍王峡」の手前にありました。
「今市宿」から北に約28kmの地には、かって「五十里宿」が栄えていたが、1683年(天和3年)の地震による山崩れで、男鹿川がせき止められ五十里湖出現し、宿は湖底に沈んだ。
「糸沢宿」の南から、国道352号を西へ約18km進んだ舘岩村(たていわむら)に残る前沢曲家集落が有ります。
「糸沢宿」は会津西街道の8番目の宿場町で、背後に「山王峠」を控えていた事から、会津藩や村上藩・新発田藩など参勤交代で会津西街道を利用した大名が宿泊として利用していました。
「龍福寺」の創建は伝承によると1189年(文治5年)、源義経が源頼朝に追われ京都から奥州平泉に下向する途中、「糸沢宿」付近に逃避したとされ、家臣:渡邉内膳守義政がこの地に留まり1212年(建暦2年)に「龍福寺」を開山したと伝えられています。
「田島宿」は会津西街道が開削された1615~1623年(元和年間)に、宿場町として整備されました。1643年(寛永20年)会津藩主:加藤明成が御家騒動により改易になると、天領となり1644年(正保元年)には番所が「糸沢宿」に移され、1693年(元禄6年)には天領代官陣屋が設けられました。
「楢原宿」は江戸時代初期に開削された会津西街道の宿場町で、1640年(寛永17年)に製作された「楢原宿古絵図」によると東町22戸、西町22戸という小規模な宿場でした。
1647年(正保4年)に会津藩から管理体制の掟が施行され、1667年(寛文7年)に一里塚が築かれるなど17世紀にようやく街道の整備が完成したと推定されています。
「倉谷宿」は会津西街道の4番目の宿場町で、古くは串谷と呼ばれていましたが、高倉宮以仁王が集落と縁を持った事から高倉宮の「倉」の字に因み倉谷に改称したと伝えられています。
「大内宿」は会津若松城下と日光を繋ぐ会津西街道と呼ばれる宿場町で、伝承によると高倉宮以仁王(後白河天皇の第三皇子)が平家打倒を画策し1180年(治承4年)に挙兵しました。
宇治平等院の戦いで敗北し越後国小国の領主:小国頼之(源頼政の弟)を頼って当地(山本村)に逗留した際、宮中の「大内」に良く似た風景だった事から大内に改めたと伝えられています。
写真は「大内宿」の中央に復元された本陣の内部で、大名の休憩用の上段の間や、大名が乗物駕籠に乗ったまま出入りした玄関が再現されている。