歴史散策:黒野城跡(2020.3.19)
加藤光泰(貞泰の父)は斎藤龍興・豊臣秀吉に仕え甲斐国24万石を与えられていたが、文禄の役に出陣したが朝鮮で1593年(文禄2年)に病死する。
子供の貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡4万石に削封されてしまった。
加藤貞泰は、1594年(文禄3年)黒野城の築城に着手。城は平城で本丸を中心に二の丸・三の丸と三重の堀に囲まれた輪郭式の曲輪で、 規模は東西約1Km、南北約800m。
主な屋敷は土塁・堀に囲まれ、外敵に備えた環濠集落に似た構造である。南西側には15の町屋敷が整然と配置され、郭内は二ノ丸・広小路・役所・道場・馬場・蔵屋敷等城の施設と、家臣196家の屋敷等が並んだ。
黒野城の本丸は約110m四方の方形で、土塁は高さ約5m、外側は幅約15mの堀に囲まれていた。
南西には枡形虎口(ますがたこぐち/城の出入り口)があり、現在の標柱附近には石垣に囲まれた城門と橋、北西隅と南東隅には土塁が外に張り出し、櫓(やぐら)台があったと推測されます。