旅:日本の街道1 京都・若狭街道(2020.5.23)

「若狭街道」は若狭国等の小浜藩領内(概ね現在の福井県嶺南地方に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。
主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特に鯖が多かった事から、「鯖街道」と呼ばれるようになった。

「大原口」~「花折峠」・・講談社参照

最も良く利用されたのが「小浜」から「熊川宿(現:福井県若狭町)」「朽木村(現:滋賀県高島市)」を経て、京都の「出町柳」に至る「若狭街道」で、一般に言われる「鯖街道」はこの経路の事を指している。

「花折峠」~「小浜」・・講談社参照

「大原口」は「八瀬」「大原」を経て「朽木」「若狭」につながる、「若狭街道」が延びていた。御土居の出入口が河原町今出川交差点の西側にあり、寺町今出川付近に「大原口町」の地名が残っている。
「詩仙堂」は徳川家の家臣:石川丈山が、隠居のため造営した山荘である。名前の由来は、中国の詩家36人の肖像を掲げた「詩仙の間」による。

大原口宿場」・・講談社発行参照

「曼殊院」は寺伝では782~806年(延暦年間)に、伝教大師:最澄が比叡山上に営んだ一坊がその起源とされる。北山にあった「曼殊院」は、足利義満の北山殿(後:鹿苑寺)造営のため移転を余儀なくされ、1379~1381年(康暦年間)に洛中に移転する。
夏目漱石は1892年(明治25年)に正岡子規と、1907年(明治40年)には高浜虚子と共に、山端の「平八茶屋」を訪れている。

「修学院」・・講談社発行参照

「八瀬」は東に比叡山地、西に若丹山地に挟まれた渓谷に位置する。南北に八瀬川(高野川)が流れ、川に沿って「敦賀街道」が通る。
「八瀬天満宮」は菅原道真旧跡に鎮座する天満宮で、祭神は「菅原道真公」である。菅原道真が幼少の頃比叡山の尊意のもとに通う時に、ここで休憩していたという。
「花尻の森」は源頼朝が、寂光院に隠棲した建礼門院を監視させた松田源太夫の屋敷址と言い伝えられ、社には猿多彦命が祀られている。

「八瀬」~「花尻の森」・・講談社発行参照

「大原」は大原盆地は四方を山に囲まれており、高野川に沿って「若狭街道」が通っている。古くは「おはら」と読まれ、「小原」とも表記された。
「来迎院」は806年(大同元年)に空海が、唐で感得した三宝荒神像を安置して開創したとされる。浅野の家臣:大石良雄は外戚にあたる泉涌寺長老兼来迎院住職:卓巖和尚を頼り、檀家となって山科に居を構え過ごしたと伝えられる。
「三千院」は最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、後に比叡山東麓の坂本(現:大津市)に移され、1871年(明治4年)に現在地に移った。
往生極楽院(旧称:極楽院)は、平安時代末期の12世紀から大原の地にあった阿弥陀堂であり、1871年に三千院の本坊がこの地に移転して来てから、その境内に取り込まれた。

「大原」・・講談社発行参照
JAPAN GEOGRAPHIC提供

「阿弥陀寺」は1609年(慶長14年)に、弾誓上人が開山した念仏道場である。
「花折峠」は「若狭街道」の中で随一の、難所といわれた峠でもある。安曇川と和邇川の、「分水嶺」となっている。
「興聖寺」は僧:道元が近江守護:佐々木信綱に建立を勧め、菩提寺として1240年(仁治元年)に伽藍が完成しました。

「花折峠」「葛川」~「朽木宿場」・・講談社発行参照

「熊川宿」は近江との国境に近く、「小浜」と「今津」のほぼ中間点に位置し、江戸時代を通して「若狭街道」随一の宿場町として繁栄した。
「松木神社」は江戸時代初期に年貢の軽減を直訴して実現させた代わりに、28歳で磔(はりつけ)となった新道村庄屋:松木庄左衛門が祀られている。

「熊川宿場」・・講談社発行参照

「明通寺」は806年(大同元年)に、北陸地方を巡行中の坂上田村麻呂が創建したとされる。
「国分寺」は奈良時代に聖武天皇の詔により建立された、若狭国国分僧寺の後継寺院にあたる。寺域内に、古墳が残る点で特徴を有する。

「遠敷」・・講談社発行参照

「神宮寺」は元正天皇の勅願により714年(和銅7年)に、「若狭彦神社」の神願寺として泰澄大師の弟子:沙門滑元により開創されたと伝わる。「奈良東大寺二月堂」への『お水送り』が行われる寺である。
「羽賀寺」は716年(霊亀2年)に、元正天皇の勅願によって行基が創建したとされる。

「小浜宿場」・・講談社発行参照
朝日新聞社提供