旅:日本の街道3 東海道2-1(2020.5.28)
徳川家康は1601年(慶長6年)に「五街道整備」を行い、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。
日本橋(江戸)~三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所で東海道五十三次である。「品川宿」からの通し番号で 江戸~京都は124里8丁(487.8km)で、旅籠が全部で3.000軒近くあったと言われる。(本:126里余・・調べたのと違う?)
「京橋」という地名は東海道の起点である日本橋から、「京へ上る最初の橋」であった事から、その名が付いたとされる。材木から桶まで木を扱う職人が多く、現在の京橋一丁目付近は大鋸町と呼ばれ、材木を加工する職人が住んでいました。
「新橋」は江戸城の外堀である汐留川に架かる橋として呼ばれていましたが、宝永7年(1710年)に橋の北側に芝口御門が設けられ「芝口橋」と改称されました。
享保9年(1724年)に橋の郭門が消失し再建されなかったので、江戸時代後期には俗に「新橋」と呼ばれていたと言われる。
「浜松町」は天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城して以来、江戸城の城下町として整備された。慶長3年(1598年)、徳川将軍家菩提寺の「増上寺」が麹町より現在地に移った。
「高輪」の地名は戦国時代の軍記物語の中に、「高縄原」として書かれている事に由来する。高縄とは高縄手道の略語であり、「高台にある真っ直ぐな道」を意味している。
「御殿山」の地名は寛永(1624~1644年)の頃、この地に御殿が建てられた事が名前の由来で、使用目的は「将軍の狩猟の休息所」「西国大名の参勤送迎」等諸説ある。
「品川宿」は東海道五十三次の1番目の宿場で、中山道の板橋宿・甲州街道の内藤新宿・日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
古典落語の廓噺(居残り佐平次・品川心中等)の舞台となっており、岡場所(色町・遊廓・飯盛旅籠)としても賑わっていた。
「川崎宿」は2番目の宿場で、初めは正式な宿場となっていなかった。「品川宿 」~ 「神奈川宿」間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったので1623年(元和9年)に設置された。
「神奈川宿」は3番目の宿場で、台町から海を見下ろす眺望は、十返舎一九『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され名所である。
「保土ヶ谷宿(程ヶ谷宿)」は4番目の宿場で、1648年(慶安元年)迄は元町付近に宿場があった。東海道も西北の位置にあったが、新町(下岩間町 ~程ヶ谷茶屋町)が起立して道筋も変更になった。
「戸塚宿」は5番目の宿場で、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であった。戸塚にも宿屋が増え、客を奪われる事を恐れた藤沢宿の、猛反対を押し切り幕府公認となった。