旅:日本の街道3 東海道2-2(2020.5.29)
徳川家康は、1601年(慶長6年)に「五街道整備」により、五つの街道と「宿(しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。
日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所でいわゆる東海道五十三次である。
品川宿からの通し番号で 江戸~京都は124里8丁(487.8km)で、旅籠が全部で3.000軒近くあったと言われる。(本:126里余・・調べたのと違う?)
「藤沢宿」は慶長6年(1601年)に東海道の宿場となり神奈川県藤沢市にあったが、後に「戸塚宿」「川崎宿」が追加され6番目の宿場となる。
東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門・八王子城・玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。
「江の島」は奈良時代には役小角が、平安時代には空海・円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)・一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。
寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁財天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。
「平塚宿」は7番目の宿場で、「平塚宿の役人真壁源右衛門の一人娘だったお菊は、行儀見習いに出た江戸の奉公先で無実にも関わらず非業の死を遂げ、その亡骸がこの場所に葬られた」と伝えられている。
建久9年(1198年)冬、橋供養の日に招かれた源頼朝が渡ろうとすると、川面に壇ノ浦で入水した安徳天皇の亡霊が現れ、頼朝は落馬しその怪我がもとで他界?。・・川は「馬入川」と呼ばれた。
「大磯宿」は8番目の宿場で、日本三大仇討ちのひとつ「曽我兄弟の仇討ち」にゆかりが深く、鎌倉時代の舞の名手伝説の美女「虎御前(虎女)」が、兄弟を偲んで庵を結んだ跡とも伝えられる。
「小田原宿」は9番目の宿場で、江戸を出て最初の城下町にある宿場で、島崎藤村旧宅・滄浪閣(伊藤博文旧宅)・松並木(箱根駅伝)等有名なスポットがある。
「小田原城」は3代当主:北条氏康の時代には難攻不落(無敵の城)と言われ、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた。江戸時代には小田原藩の藩庁があり、幕府から「入り鉄砲出女」といわれた箱根の関所を預かる立場であった。
「箱根二十一湯」とも言われる程箱根には数多くの温泉場があり、箱根湯本温泉の開湯は奈良時代で、757年に泰澄弟子「浄定坊」が開いたと伝えられている。
「箱根宿」は10番目の宿場で、元和4年(1618年)に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置された。
関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、「三島宿」寄りに急遽人工の町を設置した。・・小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させた。