旅:日本の街道4 山陽道1 2-1(2020.5.30)
山陽道は五畿七道の一つで、本州西部の瀬戸内海側を通る幹線道路(古代から中世)を指す。1.300年以上昔、都と九州の大宰府を結び、都からの官使・唐やあるいは新羅や百済など、異国からの使者を迎えたこの道こそ、古代の山陽道である。(本を参照)
大和朝廷は国家の威信をかけて、京都~下関間(600km)に西宮・明石・姫路など56駅を設置し、最大幅20mもの大道を敷設した。(本を参照)
江戸時代には一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた。
「西宮宿」は京からの西国道(山崎街道)と大坂からの中国路が合流する要所で、天保年間(1830~1844年)には神社前の本町通の両側に、60軒以上の旅籠が軒を連ねたという。
「西宮神社」は兵庫県西宮市にある神社で、日本に約3.500社ある「えびす神社」の「えびす宮総本社」で、地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
「灘五郷」は日本を代表する酒どころの一つで、西郷・御影郷・魚崎郷・西宮郷・今津郷の総称です。(神戸市東灘区・灘区と同県西宮市)を合わせた一部地域を指す。
日本酒造りに適した上質の酒米(山田錦)とミネラル豊富な上質の地下水(宮水)が取れ、寒造りに最適な六甲おろしが吹き、製品の水上輸送に便利な港があったので、江戸時代以降日本酒の名産地として栄えた。
「兵庫宿」は山陽道2の宿で、享保年間(1716~1735年)では、人口:19.766人と賑わっていた。「須磨浦」は万葉の頃から知られる景勝地で、光源氏の流浪の地となった事でも知られる美しい海岸である。
「一ノ谷の戦い」で坂東武者:熊谷直実は、沖の船目指して逃げる平家の若武者:平敦盛(あつもり)を格闘の末打ち取ったが、それは我が子を思わせる美しい16歳の笛の名手であった。・・武芸の家に生まれずはと嘆く。
「赤石宿」は山陽道3の宿で、「明石城」は1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主:小笠原忠が、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。
「天離(あまざかる)夷(ひな)の長道(ながじ)ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」・・万葉集:柿本人麻呂
「加古川宿」は山陽道4の宿で、この宿場には儒学者:頼山陽をはじめシーボルト・小林一茶などの旅人が宿泊しています。
創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったが、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたと言う。