旅:日本の街道4 山陽道1 2-2(2020.6.2)
山陽道は五畿七道の一つで、本州西部の瀬戸内海側を通る幹線道路(古代から中世)を指す。1.300年以上昔、都と九州の大宰府を結び、都からの官使・唐やあるいは新羅や百済など、異国からの使者を迎えたこの道こそ、古代の山陽道である。(本を参照)
大和朝廷は国家の威信をかけて、京都~下関間(600km)に西宮・明石・姫路など56駅を設置し、最大幅20mもの大道を敷設した。(本を参照)
江戸時代には一級の幹線道として扱われた山陽道も、五街道と連結する脇街道へと扱いは格下げされた。
「御着宿」は山陽道5の宿で、御着城(城主:小寺政職)の軍略に長けた家老:黒田官兵衛は有名である。
「姫路宿」は山陽道6の宿で、本陣:3軒・旅籠:25軒・人口:17.034人と栄えていた。
「引越し大名」と言われた姫路藩藩主:松平直矩は、越前国大野藩主(福井県大野市)→姫路藩(兵庫県)→豊後国日田藩(大分県)→出羽山形藩(山形市)→陸奥国白河藩(福島県白河市)等7回の国替えをさせられた。(実話)
「姫路城」の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。
「松原八幡神社」は兵庫県姫路市にある神社で、「灘のけんか祭り」で知られている。天平宝字7年(763年)4月11日、妻鹿の漁師が「八幡大菩薩」と書かれた霊木を拾い上げ、その霊木を祀った事を起源とする。
「鵤宿」は山陽道7の宿で、「班鳩寺」近くに大名等の泊まる本陣があり、山陽道や龍野への街道沿いに商家・旅籠等が軒を連ね、宿場町として大いに栄えた。寛永12年(1635年)、参勤交代の制定に従い宿駅に追加された。
「龍野城」(別称:鶏籠山城)は播磨国揖保郡(現:兵庫県たつの市)にあった城で、明応8年(1499年)に龍野赤松氏・赤松村秀が築いた。
「室津宿」は山陽道7の宿で、本陣:6軒・人口:3.000人として栄え、西国大名の参勤交代・朝鮮通信使の上陸地として「室津千軒」と迄言われた。
「正条宿」は山陽道8の宿で、「片島宿」迄半里(1.9km)の距離にあり、「正條の渡し」があった。
「片島宿」は山陽道9の宿で、「有年宿」迄3里(11.8km)の距離にあり、「原八丁」と表現され街道集落として栄えた。
「有年宿」は山陽道10の宿で、備前国の「三石宿」迄3里(11.8km)の距離にあり、寛永年間(1624~1643年)頃に西有年から東有年に宿場町が移された。
赤穂は正保2年(1645年)より本格的に建設が開始された城下町で、慶長年間には池田長政の領地となり「掻上城」が築かれる。古くから塩田(揚浜式塩田・入浜式塩田・流下式塩田)が栄え、生産されている塩は「赤穂の塩」として全国に流通している。
「赤穂事件」は元禄年間に江戸城の松之大廊下で、高家の吉良上野介義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主:浅野内匠頭長矩が切腹に処せられた事件である。・・後の「吉良邸討ち入り」