旅:日本の街道5 日光道中2-2(2020.6.4)
日光街道(日光道中)は江戸時代に徳川幕府の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸~下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として、東海道に次いで整備された。
日光街道は「千住宿」~「鉢石宿」迄の21宿・約36里(140km)の距離があるが、今回本に記載されているのは、「千住宿」「草加宿」「幸手宿」「古河宿」「小山宿」「宇都宮宿」「今市宿」「鉢石宿」の8宿場のみです。・・理由は不明。
「小山宿」は日光街道(日光道中)の12番目の宿場で、「五街道追分の地」とも呼ばれ、日光街道・壬生通り・結城道・佐野道・栃木道が交差する交通の要所であった。
「小山御殿」は将軍家の日光社参の為に設けられた休憩所で、元和8年(1622年)に徳川秀忠が日光社参に行った際に、関ヶ原の戦いの小山評定を吉例として設けられた。
「宇都宮宿」は日光街道及び奥州街道の17番目の宿駅で、宇都宮城の城下町にあり、各地を結ぶ主要道路が通る交通の要衝で、日光街道で最も賑わった宿場町と云われている。
「大谷磨崖仏(おおやまがいぶつ)」は御止山といわれる凝灰岩の山の西南側にある、洞穴の壁面に造立された石心の塑像である。
「今市宿」は日光街道の20番目の宿場町で、日光例幣使街道・日光街道の追分には地蔵堂がある。空海(弘法大師)が大谷川含満ヶ淵の岸辺に建てた石仏と云われ、大水で流されて今市の河原に埋もれていたのをここに堂を建て安置したものと云われている。
松平正綱が1625年(寛永2年)から20年以上の歳月をかけて、紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹した。諸大名からは「東照宮に対して何とケチなことよ」と非難を受けたが、「末をご覧あれよ」と返したといわれる。
日光杉並木街道は日光街道・日光例幣使街道・会津西街道の3街道に跨がるスギの並木道で、大沢 ~日光間16.52km・小倉 ~今市間13.17km・大桑 ~今市間5.72kmの3区間の両側にスギが植栽された並木道
「鉢石宿」は日光街道の21番目の宿場町で、徳川家康を日光山に祀り日光参詣が盛んとなると日光東照宮の門前町として大いに栄えた。
「日光」は江戸時代に徳川家康・家光の廟地となって以来、日光東照宮の鳥居前町として参拝客で賑わった。以後「日光を見ずして結構と言うこと莫れ」という言葉で、日本中に観光地・景勝地として知られるようになった。
徳川家康死後に神号を巡り以心崇伝・本多正純らと争い、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、以心崇伝は家康の神号を「明神」として古来よりの吉田神道で祭るべきだと主張した。
建物には多様な動物の木彫像が見られ、これらの動物のほとんどは平和を象徴している。・・有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」・・大津市の「山王大社」とも関係がある。?(猿を神使とする山王信仰)
2代将軍:徳川秀忠の諮問に対し天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言した事で、「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
「日光二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)」は男体山(古名:二荒山(ふたらさん)・女峰山・太郎山からなり、日光二荒山神社ではそれぞれに神をあてて祀っている。(華厳滝・いろは坂を含む)
天応2年(782年)勝道は日光の神体山である男体山の登頂に成功し、観音菩薩の住処とされる補陀洛山(ふだらくさん)に因んでこの山を二荒山(ふたらさん)と名付けた。後に「二荒」を音読みして「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、これが「日光」の地名の起こりであるという。
「輪王寺」は栃木県日光市にある寺院で、天台宗の門跡寺院である。奈良時代に山岳信仰の社寺として創建されたもので、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。