旅:日本の街道6 奈良・山の辺の道と飛鳥路2-2(2020.6.7)
奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁・春日断層崖下を山々の裾を縫うように南北に走る。(全長:約35km・幅:2m程度)
沿道には石上神宮・大神神社・長岳寺・崇神天皇陵・景行天皇陵・金谷石仏などの多くの寺社や古墳群があり、この地に権力を握る古代国家の中枢があった事や、文化交流の重要な幹線道路であった事をうかがわせている。
崇神天皇陵の在り処を、山辺の道の「勾の岡(まがりのおか)」の「上(ほとり/うえ)」と記している。「山辺の道」は古墳時代の崇神天皇の時代には、既に整備されていたと考えられている。古墳時代の奈良盆地は沼地・湿地が多く、これを避けて山林・集落・田畑の間を縫うように山裾に沿って作られた為、道は曲がりくねっている。
「大和神社」(おおやまとじんじゃ)は奈良県天理市にある神社で、『日本書紀』によれば元々「倭大国魂神」は大地主大神として、「天照大神」とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた。
世の中が乱れたり謀反を起こそうとする者が出たので、崇神天皇は神威を恐れ崇神天皇6年(569年)に「天照大神」を、皇女:豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて大倭国の笠縫邑(かさぬいむら)に移して祀る事とした。
戦艦大和は1945年(昭和20年)4月7日に坊ノ岬沖海戦によって沖縄沖で沈没したが、その時に戦死した第二艦隊司令長官:伊藤整一中将以下2.717名が末社・祖霊社に合祀されている。
「大神神社」は奈良県桜井市にある神社で、大神神社は纒向・磐余一帯に勢力を持った出雲ノ神の一族が崇敬し、磐座祭祀が営まれたとされる日本でも古い神社の一つである。
三輪山(三諸山)を神体山として直接拝するようになっているため、本殿を持たず山中には上から奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3つの磐座がある。
「藤原京」は奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城で、694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都である。
日本書紀には持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮(倭京)から宮を遷した。それ迄は天皇毎あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていたが、3代の天皇に続けて使用された宮となった事は大きな特徴である。
「藤原京」の規模は5.3km(10里)四方少なくとも25K㎡はあり、平安京(23K㎡)・平城京(24K㎡)をしのぎ、古代最大の都であった。
藤原宮はほぼ1km四方の広さで、周囲:約5m程の高さの塀で囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。(南の中央の門:朱雀門)
「明日香」は奈良県の中央部付近に位置する村で、中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿・史跡が多く、「日本人の心の故郷」とも紹介される。
語源については、賀茂真淵・伴信友らの鳥名に由来し、この鳥が多く群生したことによるという説等色々ある。
「石舞台古墳」は下部は方形で20~50cm大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられ、玄室:長さ約7.7m・幅約3.5m・高さ約4.7m、羨道:長さ約11m・幅2.5mの規模を有する。
『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は蘇我馬子を指している。封土が剥がされ墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではとする説もある。
「橘」の地は廐戸皇子(聖徳太子)の生誕の地とされ、田道間守が大陸から持ち帰った種をこの地にまいたところ、それが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を「橘」と呼ぶようになったとされています。
「橘寺」は奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺で、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が、持ち帰った橘の実に由来する。