旅:日本の街道7 北国街道 加賀路2-2(2020.6.14)

琵琶湖の東岸に南北に広がる湖東平野は、古来京都と東国・北陸を結ぶ交通の要衝であった。1.000m級の山々が連なる伊吹山地の裾野を、琵琶湖沿いに進み、そのまま北上すれば日本海に到達する。同時にこの経路こそが、京から北陸への最短路であった。・・講談社参照

「彦根」~「今庄」・・講談社参照

「北国街道」は金沢からさらに越中(富山県)・越後(新潟県)まで続いており、彦根から新潟まで全長520kmある。このうち金沢までの道は特に「加賀路」と呼ばれ、190km程度である。・・講談社参照。

「今庄」~「金沢」・・講談社参照

「府中」(府中→武生市→越前市)は紫式部が父:藤原為時にしたがってこの地に滞在していた事にちなみ、「紫式部公園」が造られた。(面積:1.9ha)「武生」の由来は「生」が植物群落を意味する事から、竹薮の意味の「竹生」から来ているとも言われる。
「北庄」は福井藩主3代:松平忠昌が越前に入った時、「福居」に改称し元禄頃に「福井」に変わったとされる。

「府中」「北庄」「一乗谷」「永平寺」・・講談社参照

「一乗谷」は東西約500m・南北約3kmと狭小だが、北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道・鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道・北陸道と連絡した朝倉街道等が通る。
「一乗谷朝倉氏遺跡」は一乗谷城を中心に越前国を支配した朝倉氏の遺跡で、城と山麓の城下町(朝倉氏・家臣の居館)からなる。応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧・文人・学者たちが避難してきたため、一乗谷は飛躍的に発展し華やかな京文化が開花した。(北ノ京と呼ばれた)

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「永平寺」は總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)で、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪:波多野義重の請いにより吉峰寺へやって来た。

「永平寺」・・講談社参照

道元は1244年(翌寛元2年)に吉峰寺より里に近い「傘(さん)松峰大佛寺」を建立し、1246年(寛元4年)に山号寺号を「吉祥山永平寺」と改めている。

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「実性院」は1641年に建立された草庵が始まりと言われ、1644年「宗英寺」として開創された。(1661年:下寺院群に移る)大聖寺藩歴代藩主の菩薩寺として知られ、「萩の寺」とも呼ばれています。萩に白色が多いのは、先代の和尚が純粋無垢『けがれのない心』であって欲しいという思いで植えられた。

「実性院」・・講談社参照

「那谷寺」は小松市にある高野山真言宗の寺で、717年(養老元年)泰澄法師が越前国江沼郡に千手観音を安置したのが始まりとされる。986年(寛和2年)花山法皇が行幸の折り岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じ、観音霊場三十三カ所は全てこの山に凝縮されるとし、西国三十三観音の一番「那智」と三十三番「谷汲」の山号から一字ずつを取り「自主山厳屋寺」から「那谷寺」へと改名した。
「小松」は平安時代に花山天皇が巡幸した際、梯川の辺に松を植え「園の小松原」と呼ばれたのが地名の由来とされる。
「安宅の関」は源義経が武蔵坊弁慶等とともに、奥州藤原氏の「平泉」を目指して通りかかり、弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたが、関守:富樫泰家の同情で通過出来たという歌舞伎「勧進帳」でも有名である。

「納谷寺」「小松市」「安宅関」・・講談社参照
旅館「法師」(小松市)・・2019年10月撮影

金沢の地名は室町時代の文明年間には既に存在していた事が知られ、金沢の小立野台地の先端の山尾(尾山)にあったので尾山の呼称が使われた。
織田信長が加賀一向一揆の拠点「尾山御坊」を攻め落とし跡地に佐久間盛政が新城を築いたが、一向一揆の印象が強い尾山ではなく「金沢城」名を用いた。

「金沢市」「金沢城」・・講談社参照

前田利家(加賀藩主)が入城すると羽柴秀吉に敵対して滅ぼされた佐久間盛政命名の「金沢城」ではなく、自身の出身地の尾張国にも通じる「尾山城」を採用した。

「金沢城」・・2019年10月撮影
ユーチューブ・・北陸朝日放送提供
「兼六公園」・・2019年10月撮影
「近江町市場」・・2019年10月撮影
「近江町市場」・・2019年10月撮影

「長町武家屋敷跡」は加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ね、金沢市の繁華街である香林坊の西側に位置している。

「長町武家屋敷跡」・・講談社参照

前田家の重臣:長氏の屋敷があった事が名前の由来で、土塀と石畳の路地が続いており、藩政時代の情緒ある雰囲気を味わう事ができる。

長町武家屋敷」「尾山神社」・・講談社参照
長町武家屋敷」・・2019年10月撮影