旅:日本の街道8 山陰道1 2-1(2020.6.17)
「山陰街道」は京から丹波を経て山陰地方を通り、周防国の小郡(現・山口市)で「西国街道」に合流する。明治時代に京都府令により、「山陰街道」の名称に統一された。
平安京羅城門を起点として大縄手を西行して桂川を横断、樫原・大枝・王子(亀岡市)に至って丹波に入る。ここより府道402号線のコースを通って、国道372号沿いに天引峠を越えて篠山盆地に入る。国道176号のコースを通って丹後国府(宮津市)に入り、さらに国道482号線コースに但馬国府(豊岡市)に抜けるのではないかと推測されている。
「丹波口」は平安京の朱雀大路の跡(千本通)の一部を南北に走る山陰本線が、五条通(国道9号)と交差する位置にある。名は京の七口の一つ、「丹波口」に由来する。
1589年(天正17年)豊臣秀吉によって柳馬場二条に傾城町「柳町」が開かれ、初代徳右衛門が「角屋」の営業を始める。1602年(慶長7年)「柳町」は六条三筋町へ突然移転を余儀なくされ、更に1641年(寛永18年)に移転となり、二代目徳右衛門によって現在地の島原へ移された。
「東寺」は京都市南区九条町にある真言宗の根本道場で、東寺真言宗の総本山である。平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
「梅宮大社」は橘嘉智子(第52代:嵯峨天皇の皇后)が「梅宮神」に祈願し皇子(54代:仁明天皇)を授かり、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神として信仰される。
「桂離宮」は京都市西京区桂にある皇室関連施設で、17世紀(江戸時代)に皇族:八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。(総面積:6万9千㎡)
「松尾大社」は京都府京都市西京区嵐山宮町にある神社で、境内は神体の松尾山の麓に位置し、本殿は室町時代の造営である。全国でも類例の少ない両流造であり、国の重要文化財に指定されている。
「樫原」は南北に通じる物集女街道で、東西に伸びる山陰街道の結節点にあたる。四条街道と通じ、梅津や桂・嵐山の木材湾港と通じる古くからの商業路である。
「大野原神社」は784年(延暦3年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、藤原乙牟漏(桓武天皇の后)が氏神の「奈良春日社」の分霊を勧請して大原野に祀った。
「勝持寺」は京都市西京区大原野にある天台宗の寺院で、古くから桜の名所として知られ、西行法師ゆかりの寺として知られるが、創建についてはあまり明らかでない。
「十輪寺」は京都市西京区大原野小塩町にある天台宗の寺院で、平安初期の歌人で六歌仙のひとり在原業平が、晩年この寺に隠棲したと伝わる事から「なりひら寺」とも称された。
藤原明子(文徳天皇の染殿皇后)の世継誕生を祈願し、850年(嘉祥3年)伝教大師作の延命地蔵を安置したのが起こりと伝わる。祈願後めでたく皇子が誕生し、後に清和天皇になられた事から文徳天皇勅願所となる。
中庭に植えられている樹齢約200年の、なりひら桜(枝垂れ桜)でも知られる。
「大枝山」は京都府にある山で、京都市西京区と亀岡市の境に位置する。(標高:480m)「大枝山の峠」は昔は「大江坂(おおえのさか)」と呼ばれ、それが変化して「老ノ坂峠」と呼ばれるようになった。
「亀山」(現:亀岡市)は山陰道の宿場町で、織田信長の命を受けて丹波攻略のため、明智光秀が口丹波にある亀岡盆地の中心に1578年(天正6年)「亀山城」を築城した。
1582年(天正10年)6月、13.000の軍が桂川を渡った時、明智光秀は初めて本意を明かした。光秀は備中に向かうと見せかけ、「亀山城」を発し一気に本能寺へ攻めかかった。愛宕権現に詣で、「ときは今 天(あめ)が下知る 五月哉」と詠んで、主君織田信長を討つことを密かに誓った。・・講談社参照
丹波高地を発した桂川は亀岡盆地~京都盆地に出る迄に(11.5km)わたって、愛宕山南麓の狭隘な山間部を蛇行して流れ、この山間部の渓谷が「保津峡」である。
「保津峡」は京都府亀岡市から京都市右京区嵐山の渡月橋に至る保津川(桂川) の渓谷で、観光トロッコ列車で知られる景勝地である。