旅:日本の街道8 山陰道1 2-2(2020.6.20)
「山陰街道」は京から丹波を経て山陰地方を通り、周防国の小郡(現・山口市)で「西国街道」に合流する。明治時代に京都府令により、「山陰街道」の名称に統一された。
平安京羅城門を起点として大縄手を西行して桂川を横断、樫原・大枝・王子(亀岡市)に至って丹波に入る。ここより府道402号線のコースを通って、国道372号沿いに天引峠を越えて篠山盆地に入る。国道176号のコースを通って丹後国府(宮津市)に入り、さらに国道482号線コースに但馬国府(豊岡市)に抜けるのではないかと推測されている。
「園部藩」は丹波国船井郡(現:南丹市園部町)に存在した藩で、第7代藩主:小出英筠の頃から飢饉や旱魃、洪水等の天災で、1787年(天明7年)一揆が発生。煙草の専売制や木材の市場移出制等の、藩政改革で効果を挙げた。
「須知」地区は山陰街道沿いの交通の要衝で、山陰街道から若狭方面へ向かう街道筋として繁栄した。今でもその面影を伝える、古い街並みが残っている。
「観音寺」(現:福知山市)は高野山真言宗の寺院で、あじさい寺として知られる。1576年(天正4年)に、明智光秀による焼き討ちで焼失した。
「福知山城」(現:福知山市)は丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿:明智秀満を城主とした。
「渡辺家」は大多喜藩の軍用金御用達の豪商:渡辺家の住宅で、1849年(嘉永2年)建造の二階建寄棟造である。 創建当時は茅葺であったが、現在は瓦葺となっている。
「竹田城」は(現:朝来市和田山町竹田)にあった山城で、虎が臥せているように見える事から、別名:虎臥城とも呼ばれた。城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧で霞む為、「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれる。
雲海に浮かび上がる古城の石垣群の威容は名物となっており、東に立雲峡を望む標高:353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれた。天守台をほぼ中央に配置し、本丸・二の丸・三の丸・南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。
廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
「妙見山」は兵庫県・大阪府・京都府にまたがる山で、山体が信仰の対象であり、山頂近くには日蓮宗の関西地区における重要寺院である「能勢妙見堂」がある。山頂には「為楽山大空寺」(行基の建立)があったが、鎌倉時代に入ると能勢氏(祖:源満仲)の時その地に「妙見菩薩」を祀ったとされる。
「村岡」は山陰道の城下町のひとつで、村岡藩:山名主水助義済が治めていたが、本陣となった小代屋今井実造方は村岡陣屋から下がった宿の中心部の一角にあった。
「浦富海岸」は鳥取県岩美郡岩美町にある、約15kmにわたるリアス式海岸である。海岸西部には海水等の侵食による花崗岩の断崖・奇岩・洞門が続き、海面上に大小の島や岩が散在する風景が宮城県の松島に似ている事から「山陰の松島」と呼ばれる。
「摩尼寺」は平安時代の初め頃、高草郡の産見(うぶみ)長者が喜見山(摩尼山)に登ると、立岩に帝釈天が降臨し、「今よりこの峰に鎮座して衆生を救い、なかんずく五障の身である女人を済度しよう」と告げた。長者はこの地に精舎を建て、834年頃(承和年間)円仁(慈覚大師)が再興したのが、「摩尼寺」の起こりである。
鳥取平野は沼や沢の多い湿地帯で、狩猟民族が水辺に集まる鳥等を捕らえて暮らしていた。大和国(現:奈良県)に政権ができてから「鳥取部」として従属し、そこからこの地が「鳥取」と呼ばれるようになった。
「鳥取城」(別名:久松山城)は戦国時代から江戸時代の城で、城郭形態の変化を窺うことができる事から「城郭の博物館」の異名を持つ。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。