旅:日本の街道9 四国・遍路道1 2-1(2020.6.23)
空海(弘法大師)が42歳の時(約1.200年前)に、人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場です。人間には煩悩が88あり、霊場を八十八ヶ所を巡る事で煩悩が消え、願いが叶うと言われる。
四国八十八箇所は空海が密教の曼荼羅の世界を四国に投影したという思想によって、阿波を「発心の道場」・土佐を「修行の道場」・伊予を「菩提の道場」・讃岐を「涅槃の道場」と呼ばれている。(時計回り)
20回以上四国霊場を巡ったとされる僧:真念が、1687年(貞享4年)に大坂で刊行した『四國邊路道指南』が現存する最初の出版されたガイドブックで、書物の中で初めて八十八箇寺の札所番号を記載。(真念は八十八番の次第は、何時誰が定めたのか定かではないと記述)
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で織田信長役:染谷将太が、空海役で出演している。・・U-NEXTで映画鑑賞
奈良時代の天平年間(729年~749年)に聖武天皇の勅願により行基によって「霊山寺」は開創され、815年(弘仁6年)に空海が訪れ、21日間留まって修行した。天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し、天竺の霊山である霊鷲山を和の国(日本)に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付けた。
高松市に住んでいる時、見に行きました。
阿弥陀如来の後光は遠く鳴門まで達し魚が採れなくなった為、困った漁民達が本堂の前に山を築いて光を遮った事から、「極楽寺」と命名されたと伝わる。
空海が訪れた際に水不足解消の為井戸を掘り、黄金井の霊水が湧出した事から、「金泉寺」と命名されたと伝わる。
空海がこの地での修行中に大日如来を感得し、大日如来像を刻み本尊として創建した事から、「大日寺」と命名されたと伝わる。
空海が勝軍地蔵菩薩を自ら刻み本尊として開創した事から、「地蔵寺」と命名されたと伝わる。
「安楽寺」は安楽寺谷に空海が堂宇を建立し、薬師如来を刻んで本尊としたという。・・温泉湯治で賑わった。
「十楽寺」は空海は人間の持つ八苦を離れ、極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみが、得られるようにと命名されたと伝わる。
「熊谷寺」は空海がこの閼伽ヶ谷で修行をしていた際、熊野の飛瀧権現が現れて「永く衆生済度の礎とせよ」との宣託をし、金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。
空海が巡錫中に白蛇を見て、釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられる。当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」事から、「法輪寺」の山号と寺号に改められた。
空海が修行中にほころびた僧衣を繕うため、機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を切りさいて差し出した。
空海が娘の願いで父母の供養のため千手観世音菩薩像を刻んで、娘を得度させ灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になった。「切幡寺」の山号や寺号は、機織娘の故事にちなんでいる。
空海がこの地で自らの厄祓いと衆生の安寧を願い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立し、この時空海が堂宇の前に藤を植えた事から、「藤井寺」と命名されたと伝わる。
空海は火を吐いて村人を襲う大蛇の退治に向かったが、全山に火を放って妨害した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願し、大蛇を岩窟の中に封じ込める事ができた。お礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし、「焼山寺」を建立したという。
空海が付近の「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れ、「この地が霊地であるから一寺を建立せよ」と告げた。そこで大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。
「常楽寺」は空海がこの地で修行をした時、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得し、そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。
「国分寺」は行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。
行基が勅願道場として本寺を建立し、空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置し、現在の寺名「観音寺」に改めたとされる。
空海が来錫し十一面観世音菩薩を刻んで安置し、その際に土地の人々が水不足で困っている事を知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼び、寺号も「井戸寺」と改めた。
有名な徳島市の「阿波踊り」ですが、色々もめていて開催が中断したようです。
「恩山寺」は行基が開基し、当初は「大日山福生院密厳寺」と号する女人禁制の道場でした。空海は訪問してきた母:玉依御前の為に、仁王門の辺りに護摩壇を築き、17日間の修法を行い母を迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納した事から、空海が自身の像を刻み「母養山 恩山寺」に改めたとされる。