旅:日本の街道9 四国・遍路道1 2-2(2020.6.24)
空海(弘法大師)が42歳の時(約1.200年前)に、人々に災難を除くために開いた霊場が四国霊場です。人間には煩悩が88あり、霊場を八十八ヶ所を巡る事で煩悩が消え、願いが叶うと言われる。
四国八十八箇所は空海が密教の曼荼羅の世界を四国に投影したという思想によって、阿波を「発心の道場」・土佐を「修行の道場」・伊予を「菩提の道場」・讃岐を「涅槃の道場」と呼ばれている。(時計回り)
空海が修行中に、金星人に遭遇した。?・・ほんまかいな。
20回以上四国霊場を巡ったとされる僧:真念が、1687年(貞享4年)に大坂で刊行した『四國邊路道指南』が現存する最初の出版されたガイドブックで、書物の中で初めて八十八箇寺の札所番号を記載。(真念は八十八番の次第は、何時誰が定めたのか定かではないと記述)
空海が寺を訪れた際小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み本尊を胎内に収めたといい、この時に「立江寺」と改められたと伝えられる。
空海が鶴林寺山で修行中に、雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していたが、空海はそれを見て霊木に地蔵菩薩を刻みその胎内に、鶴が守っていた地蔵像(1寸8分)を納めて本尊とし「鶴林寺」の寺名を定めた。(鶴林寺山の山頂近く)
「太龍寺」の由来は、山号は舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)に因んでいる。空海が虚空蔵菩薩像などを刻み、安置したと伝えられる。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、「遍路ころがし」と呼ばれる難所の一つである。
空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲が湧き、金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。
その水で身を清め百日間の修行をし薬師如来を刻み、堂を建て本尊として安置した。この霊水により人々の平等な幸せを願い、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称された。
「薬王寺」は火災で本尊も焼失したと考えられ、平城上皇の勅命により空海が新たに本尊:薬師如来を彫り再興した。焼失を逃れた元の本尊も飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り、自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師」と称される。(元の本尊と現本尊が二体)
「鯖大師(八坂寺)」は空海が八坂八浜を訪れた際に、塩鯖を馬に背負わせた馬子が通りがかり、空海が塩鯖を所望したが馬子は口汚くののしり断った。坂にさしかかった所で馬が急に苦しみ動かなくなり、空海が加持水を馬に与えたところ、馬は忽ち元気になった。
感服した馬子は空海の弟子となり、この地に行基の像を祀り「行基庵(鯖瀬庵)」と名付けた。空海が加持祈祷を行った海岸は、「鯖瀬(さばせ)」と呼ばれている。鯖大師伝説は、祖霊信仰→行基伝説→空海説に移り変わった。(『四国遍礼名所図会』に記載)
「御厨人窟(御蔵洞)」と「神明窟」は、室戸岬東側(国道55号沿い)に位置する隆起海蝕洞である。「御厨人窟」には五所神社があり祭神は大国主命で、「神明窟」には神明宮があり祭神は大日孁貴(別名:天照大神)となっている。
空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文:漢文)とあり、室戸岬にほど近い「御厨人窟」で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。・・「のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんありきゃ まりぼり そわか」
空海は嵯峨天皇の勅願を受け本尊の虚空蔵菩薩を刻み、「最御崎寺」を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044~1055年)頃と言われる。室戸市域の大部分が金剛頂寺(西寺)の寺領となっており、最御崎寺(東寺)はその支配下にあった。