旅:日本の街道10 長崎街道2-1(2020.6.28)
「長崎街道」は江戸時代に整備された脇街道の一つで、豊前国小(北九州市小倉北区)の常盤橋を始点として、肥前国長崎(長崎市)に至る路線である。57里(約223.8km)の道程で、途中に25の宿場が置かれた。江戸時代の長崎街道に沿って走る国道200号や、国道3号及び国道34号の通称としても用いられる。
江戸時代に鎖国政策の下で幕府が日本で唯一、外国との交易を行う港である長崎に通じる街道として重視された。筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の諸大名の参勤交代や、長崎奉行や西国筋郡代の交代、更にオランダ人や中国人の江戸参府や交易・献上品の運搬にも用いられた。
「小倉城」は1569年(永禄12年)に毛利氏が城を築き、高橋鑑種や毛利勝信が居城した。1602年から細川忠興が約7年かけて唐造の天守閣を築城し、1632年に譜代大名:小笠原忠真が入城し幕末まで小笠原氏が居城した。
「黒崎宿」は江戸時代に長崎街道の宿場町として栄え、筑前六宿の東端に位置し最大の宿として繁栄した。
小倉と聞くと、村田英雄の「無法松の一生」・・古い?
「木屋瀬宿」は小倉から2番目の宿場であり、博多を経て唐津に至る唐津街道が分岐する。街道と遠賀川の水運で栄え、旧街道沿いには当時の町並みが残っている。
「内野宿」は江戸時代そのままに道が残り、特に樹齢400年と言われる大銀杏が宿場町のシンボルとなっている。
「冷水峠」は長崎街道の内野宿~山家宿間に位置しており、「九州の箱根」と呼ばれる難所であった。(石畳の道の一部が残っている)
901年(昌泰4年)に右大臣:菅原道真が、左大臣:藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に左遷され、903年(延喜3年)に同地で死去した。
その後都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、「道真の祟り」を恐れ、遺骸が葬られた地に社殿が造られた。・・これが「大宰府天満宮」である。
「田代宿」は対馬藩の飛び地だった田代領の宿場で、昌元寺町・新町・上町・下町・外町の五町からなっていた。北東の出入口には日田彦山道へ分かれる道標として追分石が置かれ、外町には久留米道へ分かれる追分石が置かれた。
「神埼宿」の手前には街道の道標の、「ひのはしら一里塚」が残っている。長崎街道の一里塚の中で、一カ所現存している。
「境原宿」は佐賀城下と神埼宿の中間に位置する宿場で、蓮池往還道と長崎街道の分岐点でもあった。
「佐賀城」は江戸時代初頭に完成し、外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城であった。城が樹木の中に沈み込んで見える事や、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ、敵の侵攻を防衛する仕組みになっていた事から「沈み城」とも呼ばれた。
「塚崎宿」は江戸時代前期迄は、嬉野→塩田→橘→北方のコースだったが、度々の水害の為に往来ができない事が多かった為、1717年(享保年間)以降嬉野→塚崎→北方のコースに変更された。
「嬉野宿」は湯宿として知られ、ケンペルは『江戸参府旅行日記』の中で、竹の生垣で囲まれ、見張所や別荘やわら屋根の休憩所があったと記している。
「川古の大楠」は約1200年前、行基の手によって生きている樹肌に仏像が彫られるなど、数奇な運命をたどってきた楠でもある。