旅:日本の街道12 奥州道中3 2-1(2020.7.9)

「奥州道中」は江戸時代の五街道の一つで、江戸日本橋を起点として「千住」から「白河」へと至る街道である。下野国「宇都宮宿」以南の区間は「日光街道」と共用されており、「宇都宮宿」伝馬町の追分で「日光街道」と分岐していた。

「有壁」~「水沢」・・講談社参照

五街道としての「奥州街道」は正式には「奥州道中」と言い、江戸幕府道中奉行の直轄下にあった白河以南を指し、道中には27の宿場が置かれた。
江戸時代には江戸と陸奥国さらには蝦夷地間の物流が増加し、白河はその中継地点として賑わい、下野国「宇都宮」に次ぐ人口を擁するなど繁盛した。

「水沢」~「盛岡」・・講談社参照

東京と東北方面を結ぶ国道4号旧道の、栃木県宇都宮市以北の区間が「奥州街道」と呼ばれている。

「旧有壁宿本陣」は1619年(元和5年)に「金成宿」と「一関宿」の間に位置する「有壁宿」の宿駅として創設され、代々町の検断を務めていた佐藤家により運営された。参勤交代制度の確立後は、松前・八戸・盛岡・一関の各藩主や藩重臣が通行の際に宿泊所として使用した。

「有壁」~「一関」・・講談社参照

岩手県の最南端の一関市は仙台と盛岡の中間地点にあり、東北地方のほぼ中心に位置している。

ICHINOSEKI CITY一関市提供

東京からは約450kmの位置にあり、平安後期まで奥六郡を支配した安倍氏が、一の関・二の関・三の関と砦を築いた事によるという説がある。(その他諸説有る)

「一関」・・講談社参照

「達谷窟」は毘沙門天を祀った堂で、801年(延暦20年)征夷大将軍:坂上田村麻呂が、ここを拠点としていた悪路王を討伐した記念として建てた。

「一関」~「山目」・・講談社参照

「達谷西光寺」境内の西側に東西の長さ:約150m・最大標高差:約35mに及ぶ岸壁があり、その下方の岩屋に懸造の「達谷窟毘沙門堂」がある。
その西側の岸壁上部には、大日如来或いは阿弥陀如来と言われる大きな磨崖仏が刻まれ、源頼朝も鎌倉への帰路に参拝している。

神社仏閣巡り提供

「毛越寺」は天台宗の寺院で、寺伝によれば850年(嘉祥3年)に、中尊寺と同年に円仁が創建。

「山目」~「平泉」・・講談社参照

「毛越寺」の芭蕉句碑は義経主従を偲び、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠んだ。

毛越寺」「高館跡」・・講談社参照

『吾妻鏡』によれば「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は「中尊寺」をしのぐ規模だったという。

毛越寺・・2013年11月撮影
VIDEO SALON提供

「高館跡」は「中尊寺」の東にあり、源義経自害の地として知られ、「高館義経堂」や「判官館」とも呼ばれる。

れみんぐ提供
高館義経堂・・2013年11月撮影
高館義経堂・・2013年11月撮影
 hiraizumi fanchannel提供

「中尊寺」は天台宗東北大本山の寺院で、寺伝によると850年(嘉祥3年)円仁が「関山弘台寿院」を開創したのが始まりとされ、その後859年(貞観元年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。

「中尊寺」・・講談社参照

実質的には奥州藤原氏の初代:藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、「中尊寺」の創建と見られる。

中尊寺・・2013年11月撮影

1689年(元禄2年)に『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が、「中尊寺」の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。

中尊寺・・2013年11月撮影

藤原泰衡の首級桶から発見された種子から発芽し、1998年(平成10年)に開花した蓮の花が、「中尊寺ハス」として境内に植えられている。

関山 中尊寺提供

歌人:西行が1142~1144年(康治年間) に、この地を訪れて詠んだ歌の詞書(『異本山家集』所収)に、「中尊と申所」云々とあるのが初出だとされている。

「中尊寺」・・講談社参照