旅:日本の街道13 熊野街道2-1(2020.7.21)
「熊野街道」は京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への、参詣に利用された街道の総称である。「天満橋」京町付近を起点に南下し、「四天王寺」「住吉大社」を経て、和泉国(現:和泉市)に入る。
和泉国下瓦屋村(現:泉佐野市)で、それまで「熊野街道」の海側を並行して通っていた「紀州街道」が合流し、雄ノ山峠を越えて紀伊国中筋村(現:和歌山市)に至る。「紀州街道」とは中筋村で一旦分かれ、川辺村(現:和歌山市)で再び合流してすぐ再び分かれる。
「熊野街道」は川辺村から紀ノ川を渡って南下し続け、紀伊国田辺(現:田辺市)を経て、中辺路又は大辺路によって熊野三山へと向かった。
「住吉大社」は古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。
本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている。
「四天王寺」は聖徳太子建立七大寺の一つとされ、『日本書紀』によれば593年(推古天皇元年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名・駅名などに使われている「天王寺」は、「四天王寺」の略称である。
「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国・河内国・和泉国の「境」に発展した事によると言われている。「境」「左海」などとも表記され、宿院交差点にある石灯籠には、「左海たばこ庖丁鍛治」と書かれてある。
堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。
鎌倉時代以降は、摂津国と和泉国の荘園名として見られ、江戸時代(元和年間)以降は、両国の国境に大小路という東西幹線を敷いた町となった。
1336年(延元元年/建武)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した、岸和田治氏という武将の一族によって1400年迄に岸和田が開拓されたと見られる。
「岸和田城」(別名:千亀利城)は江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれ、15世紀後半に現在の岸和田城跡から約500m南東に山城が築城され(岸和田古城)、16世紀初頭頃に放棄された。
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重・西側に1重の外堀と寺町が増築されている。
1853年(嘉永6年)2月、吉田松陰は岸和田藩校講習館の館長:相馬九方を訪ね、塩屋平衛門宅(現:久住家)に10日間滞在した。
「岸和田天神宮」(祭神:速須佐之男命・菅原道真)は1362年(正平17年)の頃、泉州沼村の村長:沼間将監が山城の国「八坂神社」より御分霊を勧請したのが始まりと言われる。1716年(享保年間)に、村民が私祭していた菅原道真公を合祀をした。
「岸和田だんじり祭」は1745年(延享2年)に北町の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社(現:岸城神社)の祭に献灯提灯を掲げたいと、藩主に願い出て許可されたのが始まりである。(開催:毎年9月)
「山中宿」は紀州街道の宿場で、雄ノ山峠北麓の和泉国日根郡山中村(現:大阪府阪南市山中渓)に設けられた。「山中宿」の辺りは和泉国と紀伊国を結ぶ交通の要衝で、『日本後紀』804年(延暦23年)に、桓武天皇が紀伊国行幸の帰路に通ったとの記述がある。
「和歌山城」は標高:48.9mの虎伏山山頂に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された梯郭式平山城である。
「若山」に秀吉が築城を命じ、普請奉行:藤堂高虎・補佐役:羽田正親・横浜良慶を任じ、1年で完成させ「若山」が「和歌山」と改められている。
770年(宝亀元年)に、唐僧:為光上人によって開基された霊刹です。名草山山頂あたりに霊光を観じ、十一面観世音菩薩像を自ら一刀三礼のもとに刻み、一宇を建立して安置したのが「紀三井寺」の起こりとされる。
有間皇子は蘇我赤兄の密告により、斉明天皇や中大兄皇子を打倒する嫌疑をかけられ、「藤白峠」にて19歳で絞首刑に処せられた。・・中大兄皇子の陰謀と思われる。
「湯浅」は中世にさかのぼる醤油醸造発祥の地といわれ、近世以来有田地方の政治経済の中心地として栄えてきた。
「道成寺」は701年(大宝元年)に文武天皇の勅願により、義淵僧正が開山し紀大臣道成が建立したという。(諸説あり?)出土した瓦の年代から、8世紀初頭には寺院が存在した事は確実視されている。