旅:日本の街道13 熊野街道2-2(2020.7.27)
「熊野街道」は京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)への、参詣に利用された街道の総称である。「天満橋」京町付近を起点に南下し、「四天王寺」「住吉大社」を経て、和泉国(現:和泉市)に入る。
和泉国下瓦屋村(現:泉佐野市)で、それまで「熊野街道」の海側を並行して通っていた「紀州街道」が合流し、雄ノ山峠を越えて紀伊国中筋村(現:和歌山市)に至る。「紀州街道」とは中筋村で一旦分かれ、川辺村(現:和歌山市)で再び合流してすぐ再び分かれる。
「箸折峠」の由来は花山法皇が食事のため休憩をした時に、近くの萱を折って箸代わりにしたからと言われている。
「田辺祭」は450年以上前から続く鬪雞神社(登記上:闘鶏神社)の例大祭で、「1606年(慶長11年)流鏑馬三騎町より出」とあり、この頃より今日の町と祭りの基礎は出来上がっていた。
「箸折峠」近くの熊野古道の中辺路にある「牛馬童子」は、牛と馬の2頭の背中の上に跨った像である。922年(延喜22年)に熊野行幸を行った花山法皇の旅姿を模して、明治時代に作られたとされる。「役行者像」の左で、写真に一部しか写っていない。
「発心門王子」は九十九王子のひとつで、五体王子のひとつにかぞえられた。四門修行においては、山上の聖地に至る間に発心・修行・等覚・妙覚の4つの門を設け、それらを通り抜けることによって悟りが開かれると説かれた。
「水呑王子」は古い歴史があり、平安末期の藤原宗忠参詣記に「内水飲王子・新王子」と記載があり(当時新しく祀られた王子)、もとは「内水飲」と言われていた。
「伏拝王子」は「熊野本宮大社」を目指し難業苦行を続けた人々が、ここで思わず伏して拝んでしまう所以にある。
王子の石碑の隣には中世の歌人、和泉式部の供養塔がある。本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで歌を1首詠んだ。
「晴れやらぬ 身の浮き雲の たなびきて 月の障りと なるぞかなしき」と和泉式部が詠むと、その夜夢に熊野権現が現われて歌を返した。
「もろともに 塵にまじはる 神なれば 月のさわりも なにかくるしき」そこで、和泉式部はそのまま参詣することができたという。(歌徳説話の一種)
「旧熊野本宮大社」は熊野川の中州にあったが、1889年(明治22年)の大洪水で流され、旧社地の社殿は破損した。旧社地の中州は「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ:33.9m・横:42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。
「熊野本宮大社」は、家都美御子大神・熊野坐大神・熊野加武呂乃命を主祭神とする。「熊野権現垂迹縁起」によると熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされ、須佐之男命とされるがその素性は不明である。
「神倉神社」は「熊野速玉大社」の摂社であり、千穂ヶ峯の神倉山(標高:120m)に鎮座し、境内外縁は断崖絶壁になっている。山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる。
那智川に架かる二瀬橋付近から「熊野那智大社」に向かう「大門坂」は、600mほどの旧参詣道。鎌倉時代に敷かれたとされる石畳が続く両側には、杉並木が鬱蒼と繁る。
「熊野速玉大神」は熊野速玉大神・熊野夫須美大神が主祭神で、元々は近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったと言われる。
「補陀洛山寺」は仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと、小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海(補陀落渡海とも)」で知られる寺である。
「那智の滝」は石英斑岩からなり殆ど垂直の断崖に沿って落下し、落ち口の幅:13m・滝壺までの落差:133mに達し、その姿は熊野灘からも望見することができる。
「熊野那智大社」は熊野夫須美大神を主祭神とし、かつては那智神社・熊野夫須美神社・熊野那智神社などと名乗っていた。現在は山の上に社殿があるものの、元来は「那智の滝」に社殿があり、滝の神を祀ったものだと考えられる。
熊野三山の他の2社(熊野本宮大社・熊野速玉大社)では、明治の神仏分離令により仏堂が廃されたが、那智では観音堂が残され、やがて「青岸渡寺」として復興した。
「大雲鳥越え」と呼ばれるこの古道の途中、修験者が刻んだといわれる三つの梵字が円座石の上に見られる。梵字は右から、キリーク(阿弥陀如来)、バイ(薬師如来)、サ(観世音菩薩)と読み、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」を表す。・・講談社参照